【書評】僕たちは愛されることを教わってきたはずだ 著 二村ヒトシ 角川書店 【トークイベント前の心意気】
- 2017/09/12
- 00:33
*高石さんとのトークショーとの関係で二冊の本、著者の二人を対比した書評になってしまう。トークショーを見てきて、書き直せるのであればまたこの本における感想を再度まとめたいと思う。
_________
高石さんと二村ヒトシ監督がブックファーストにて、新刊出版のトークイベントを行うとのことを聞いた。行かなきゃな、という使命感がまたやはり働いて、僕はやっぱり過去の僕を反芻しているだけに過ぎないことを思い知らされた。なんで行きたいと思うんだろう。僕は高石さんという方に執着しているのだろう。それはなんだか、とても恥ずかしい事のように思える。ナンパ行為に依存することをやめたのに、憧れという奴なんだろうか。憧れという言葉に僕はなぜだか恥ずかしさを覚える。恥ずべき事に思えているのに僕は彼の元に出向いてしまう。どうしようもない。僕は、人を尊敬しないで生きて行きたかった。けれどそれは嘘の仮面だったのかもしれない。
トークショーに行くにあたり、二村監督の本を買う必要があると思った。僕はAVの仕事をし始めたが、二村監督に会ったことも、著書を読んだこともない。名前にだけ聞いていただけだ。有名だから、聞いたことがあるくらいの人はいるんだろうと思う。
名前だけの存在である(写真もあるが、白髪のいい感じのおっちゃんだ)二村監督に対して、僕の中には、とあるフィルターが貼られていた。それは「嫌い」というフィルターだ。名前しか知らないのに嫌いというのはおかしな話だ。だが僕には嫌いフィルターが貼られている。それは何故か。人から言われたことなのだ。その人物には言わないでくれ、ツイッターにも言わないでくれと散々言われていたのだが(だったらなんで言うんだろうという話だが)僕にとっての二村監督のイメージには、とても大事な事柄なので名前を伏せて書かせてもらう(申し訳ございません)。多分この事を見つめないとこの本は読めないと思った。
お世話になった某氏に言われたことなのだ。
「彼のことが嫌いだ」
何故嫌いなのか聞いたのだが、あんまり思い出せない。多分、自分とは違うことへの嫉妬なんだろうかと思った。それとも同族嫌悪か。僕はまるで赤ん坊のように某氏のいう「嫌い」という感情がなんだかそのままイメージとして刷り込まれ、自分のフィルターとして存在することになった。某氏の事を間違った尊敬の仕方をしていたからこう言うことになっていたのかもしれない。だが、何故だがその某氏の嫌いという感情は、二村監督の発信する僕らに対する意見や(読んではいないのが大変恐縮であるのだが、)幾多もある本の中に閉じ込められた監督自身の意思の根源的なところに関わっているのではないかと、僕は深読みしてしまうのであった。この嫌悪感情は、何か大切なものを照らしているように思うのである。きっかけは高石さん繋がりとして、になってしまったのだが(これも、AVという仕事をしているのに意識が低すぎることではあるが)そんなフィルターをやっとこさ、剥がして二村監督という人物の片鱗に少しだけ触れてみることにした。
本を読んだ簡単な感想は二村監督は天使だ。人を救おうとしている。そう言った意味で、僕愛、恋愛工学の藤沢数希に似ている。そんな印象を抱いた。見方によっては数希さんは悪魔だろうか?世間の評価としては女性の味方である二村監督が天使であるのかもしれないが、二人とも迷える子羊たちに手を差し伸べたいと考えているように思える。
一方高石さんは元悪魔の人間といったイメージを抱く。彼はしていることはナンパであるけれど数希さんとはまるで異なる。人との繋がりの追求であるけれど二村監督とも違う。女とセックスをしているが、見ているものは女ではない。女という他者から見えてくる自分を見ている。藤沢数希も二村監督も女を見ている。自分とは違う他者、自分とは別の人間として見ている。
二村監督も高石さんも人を変える力を持っている。これは本を読んだり、話を聞いたり、ご本人と対面することでわかることだと思う。変え方が違う。二村監督は人々に対して酸や塩基的な反応を、高石さんは触媒的な反応を、与える、そんな感じがする。
ともあれ性質が違うのだ。どんなトークショーになるかは想像もつかない。
この本は何回か読まないと書評できないと思った。ただ、何故か僕はこの本を読むことで疲れてしまったので、一度読み終えた後、速読のできる知人に読んでもらい、彼女に感想を頂いて、擬似的に二回目を読むことで、この文章を書く筆をとることにした。気になった章について触れて行きたいと思う。
セックスとは何か、では、著者はセックスに縛られているように思えた。セックスは楽しいものでもある。しかしどうやら、辛いもの、逃げるべきものであることに重きを置いているように思う。辛い、悲しい、縛られている、そう思えている人も中にはいるんだろうけれど、そうでない人もいる。本当にAV監督なんだろうか。セックスが嫌いなんじゃなかろうか。幼少期、もしくは思春期に女にモテまくっていたのか。モテが故に逆レイプでもされた経験があるんだろうか。それともその逆でオタクの非モテだったのだろうか。よくわからないが、もしかしたらその嫌いという負の感情をエネルギーに変えて作品作りをしているのかもしれない。それは高石さんの声をかけるという行為と同様なのかもしれない。嫌いだからこそより鮮明にその世界を磨くことができる。気になることは逐一調整できる。だがそれは続かない。それを続けていくには自意識という仮面が必要なのかもしれない。
愛とは何か、では愛されることについてふれられるのかと思いきやそんなことはなかった。というより、この本はタイトルの「愛されること」については全く書かれていない。愛されることについての伏線の回収がされていない。彼ら、彼女らは、読者のみんなは愛されてなど居ないのだろうか。そんなことはないと思った。きっと愛することに夢中で、愛されるというそのことについては見えないんだろう。そもそも、興味がわかないのだろう。愛されるということは自分にとって都合のいいことだからだ。愛されれば愛されるほど自分は曖昧になって行く。何故曖昧になるか。愛がそこで終わってしまうからである。それを受け入れることで、人の欲はなくなり、変わらぬ時を永遠と過ごすことになるのである。だが人間は欲の生き物である。そんなことを遺伝子が許してはくれない。愛されているという状況は余裕である状況である。貯金があるという状況である。心にゆとりを持って行動ができる状況である。ゆとりのあるものはこういうだろう。「パンが食べられないならケーキを食べれば良いじゃない」と。
愛されることを教わってきたのにこの章では愛することについて書かれている。叶わぬ愛、恋について書かれている。なんたる傲慢なんだろうか。お前たちは愛されている。それで満足すれば良いのだろうけれど彼らは「自分を愛している」から追っかけのことは目に見えない。彼らはモテの理論として「現実を見ろ」という。何故誰でもわかる当然の意見しか言えないのか。それは自分には安心があり、貯金があり、余裕がある状態で「愛したい」と口にしているのに対し、非モテの追いかけることしか残されていない彼らは「全く何もない状態から」愛してやまない、そんな状況だからだ。愛の熱量が違う。誰でもわかるつまらない理論で藪から棒にアイドル追っかけの非モテを叩くものは彼らの愛の熱量に嫉妬しているのだろうと思えてならない。ああきっと、某氏が嫌いだと言っていたのはこういうところだったのかもしれない。
猫とは何か、ではなんとも皮肉が効いている。自分自身が「少女漫画を語る男はキモい」を、表現している。オタクが饒舌に語る様が見て取れる。ただ、僕は著者のオタクちっくにかたる様は僕は好きだ。魅力的に思う。女の子たちは嫌いなのかもしれない。
男の僕がこの本を読んで見て、とても参考になると思った。読みやすいのは著者の考えが一貫しているところにもあるのもあるが、何よりこの著者が男だからと言うところもある。
正直、少女漫画は読みたくない。だが、女という生き物を知る上では読んだほうが良いはずなのである。少女漫画を読み、僕らが抱く「気持ち悪い」を演出したりすることがきっとモテるためのコツである。だが、なにぶん気持ちが悪い。気持ちが悪いのでこの本を使って女の子の生態を「擬似的に取得」しよう。男が書いているからこそ、この本は読みやすいし、少女漫画の雰囲気がわかる。きっと少女漫画で得られるものが大抵書かれている。それがまとめられた本書を読めば「きもちわるさ」を感じずに、モテるためのヒントを回収することができるのだ。そう言った意味で、僕は良書だと思った。
ちょっと荒い書評になってしまった。なにぶん明日、僕が行う大半の思考の元となっている高石さんと、僕の仕事の、恐らく今頂点に立つ人をこの目に見る。見終えた後、また、書けるのであれば書評してみたい。今僕が書ける本の感想は、ここまでだ。
僕は監督のことが嫌いなのか、好きなのかどうか、共感できるのかどうか、高石さんを尊敬しているのか、執着しているのか、依存しているのか、確かめなければならない。僕自身がどうなるか全くわからない。
今までのような「わからないことへの」高揚感がない。僕は過去をただ反芻している訳ではないのかもしれない。
_________
高石さんと二村ヒトシ監督がブックファーストにて、新刊出版のトークイベントを行うとのことを聞いた。行かなきゃな、という使命感がまたやはり働いて、僕はやっぱり過去の僕を反芻しているだけに過ぎないことを思い知らされた。なんで行きたいと思うんだろう。僕は高石さんという方に執着しているのだろう。それはなんだか、とても恥ずかしい事のように思える。ナンパ行為に依存することをやめたのに、憧れという奴なんだろうか。憧れという言葉に僕はなぜだか恥ずかしさを覚える。恥ずべき事に思えているのに僕は彼の元に出向いてしまう。どうしようもない。僕は、人を尊敬しないで生きて行きたかった。けれどそれは嘘の仮面だったのかもしれない。
トークショーに行くにあたり、二村監督の本を買う必要があると思った。僕はAVの仕事をし始めたが、二村監督に会ったことも、著書を読んだこともない。名前にだけ聞いていただけだ。有名だから、聞いたことがあるくらいの人はいるんだろうと思う。
名前だけの存在である(写真もあるが、白髪のいい感じのおっちゃんだ)二村監督に対して、僕の中には、とあるフィルターが貼られていた。それは「嫌い」というフィルターだ。名前しか知らないのに嫌いというのはおかしな話だ。だが僕には嫌いフィルターが貼られている。それは何故か。人から言われたことなのだ。その人物には言わないでくれ、ツイッターにも言わないでくれと散々言われていたのだが(だったらなんで言うんだろうという話だが)僕にとっての二村監督のイメージには、とても大事な事柄なので名前を伏せて書かせてもらう(申し訳ございません)。多分この事を見つめないとこの本は読めないと思った。
お世話になった某氏に言われたことなのだ。
「彼のことが嫌いだ」
何故嫌いなのか聞いたのだが、あんまり思い出せない。多分、自分とは違うことへの嫉妬なんだろうかと思った。それとも同族嫌悪か。僕はまるで赤ん坊のように某氏のいう「嫌い」という感情がなんだかそのままイメージとして刷り込まれ、自分のフィルターとして存在することになった。某氏の事を間違った尊敬の仕方をしていたからこう言うことになっていたのかもしれない。だが、何故だがその某氏の嫌いという感情は、二村監督の発信する僕らに対する意見や(読んではいないのが大変恐縮であるのだが、)幾多もある本の中に閉じ込められた監督自身の意思の根源的なところに関わっているのではないかと、僕は深読みしてしまうのであった。この嫌悪感情は、何か大切なものを照らしているように思うのである。きっかけは高石さん繋がりとして、になってしまったのだが(これも、AVという仕事をしているのに意識が低すぎることではあるが)そんなフィルターをやっとこさ、剥がして二村監督という人物の片鱗に少しだけ触れてみることにした。
本を読んだ簡単な感想は二村監督は天使だ。人を救おうとしている。そう言った意味で、僕愛、恋愛工学の藤沢数希に似ている。そんな印象を抱いた。見方によっては数希さんは悪魔だろうか?世間の評価としては女性の味方である二村監督が天使であるのかもしれないが、二人とも迷える子羊たちに手を差し伸べたいと考えているように思える。
一方高石さんは元悪魔の人間といったイメージを抱く。彼はしていることはナンパであるけれど数希さんとはまるで異なる。人との繋がりの追求であるけれど二村監督とも違う。女とセックスをしているが、見ているものは女ではない。女という他者から見えてくる自分を見ている。藤沢数希も二村監督も女を見ている。自分とは違う他者、自分とは別の人間として見ている。
二村監督も高石さんも人を変える力を持っている。これは本を読んだり、話を聞いたり、ご本人と対面することでわかることだと思う。変え方が違う。二村監督は人々に対して酸や塩基的な反応を、高石さんは触媒的な反応を、与える、そんな感じがする。
ともあれ性質が違うのだ。どんなトークショーになるかは想像もつかない。
この本は何回か読まないと書評できないと思った。ただ、何故か僕はこの本を読むことで疲れてしまったので、一度読み終えた後、速読のできる知人に読んでもらい、彼女に感想を頂いて、擬似的に二回目を読むことで、この文章を書く筆をとることにした。気になった章について触れて行きたいと思う。
セックスとは何か、では、著者はセックスに縛られているように思えた。セックスは楽しいものでもある。しかしどうやら、辛いもの、逃げるべきものであることに重きを置いているように思う。辛い、悲しい、縛られている、そう思えている人も中にはいるんだろうけれど、そうでない人もいる。本当にAV監督なんだろうか。セックスが嫌いなんじゃなかろうか。幼少期、もしくは思春期に女にモテまくっていたのか。モテが故に逆レイプでもされた経験があるんだろうか。それともその逆でオタクの非モテだったのだろうか。よくわからないが、もしかしたらその嫌いという負の感情をエネルギーに変えて作品作りをしているのかもしれない。それは高石さんの声をかけるという行為と同様なのかもしれない。嫌いだからこそより鮮明にその世界を磨くことができる。気になることは逐一調整できる。だがそれは続かない。それを続けていくには自意識という仮面が必要なのかもしれない。
愛とは何か、では愛されることについてふれられるのかと思いきやそんなことはなかった。というより、この本はタイトルの「愛されること」については全く書かれていない。愛されることについての伏線の回収がされていない。彼ら、彼女らは、読者のみんなは愛されてなど居ないのだろうか。そんなことはないと思った。きっと愛することに夢中で、愛されるというそのことについては見えないんだろう。そもそも、興味がわかないのだろう。愛されるということは自分にとって都合のいいことだからだ。愛されれば愛されるほど自分は曖昧になって行く。何故曖昧になるか。愛がそこで終わってしまうからである。それを受け入れることで、人の欲はなくなり、変わらぬ時を永遠と過ごすことになるのである。だが人間は欲の生き物である。そんなことを遺伝子が許してはくれない。愛されているという状況は余裕である状況である。貯金があるという状況である。心にゆとりを持って行動ができる状況である。ゆとりのあるものはこういうだろう。「パンが食べられないならケーキを食べれば良いじゃない」と。
愛されることを教わってきたのにこの章では愛することについて書かれている。叶わぬ愛、恋について書かれている。なんたる傲慢なんだろうか。お前たちは愛されている。それで満足すれば良いのだろうけれど彼らは「自分を愛している」から追っかけのことは目に見えない。彼らはモテの理論として「現実を見ろ」という。何故誰でもわかる当然の意見しか言えないのか。それは自分には安心があり、貯金があり、余裕がある状態で「愛したい」と口にしているのに対し、非モテの追いかけることしか残されていない彼らは「全く何もない状態から」愛してやまない、そんな状況だからだ。愛の熱量が違う。誰でもわかるつまらない理論で藪から棒にアイドル追っかけの非モテを叩くものは彼らの愛の熱量に嫉妬しているのだろうと思えてならない。ああきっと、某氏が嫌いだと言っていたのはこういうところだったのかもしれない。
猫とは何か、ではなんとも皮肉が効いている。自分自身が「少女漫画を語る男はキモい」を、表現している。オタクが饒舌に語る様が見て取れる。ただ、僕は著者のオタクちっくにかたる様は僕は好きだ。魅力的に思う。女の子たちは嫌いなのかもしれない。
男の僕がこの本を読んで見て、とても参考になると思った。読みやすいのは著者の考えが一貫しているところにもあるのもあるが、何よりこの著者が男だからと言うところもある。
正直、少女漫画は読みたくない。だが、女という生き物を知る上では読んだほうが良いはずなのである。少女漫画を読み、僕らが抱く「気持ち悪い」を演出したりすることがきっとモテるためのコツである。だが、なにぶん気持ちが悪い。気持ちが悪いのでこの本を使って女の子の生態を「擬似的に取得」しよう。男が書いているからこそ、この本は読みやすいし、少女漫画の雰囲気がわかる。きっと少女漫画で得られるものが大抵書かれている。それがまとめられた本書を読めば「きもちわるさ」を感じずに、モテるためのヒントを回収することができるのだ。そう言った意味で、僕は良書だと思った。
ちょっと荒い書評になってしまった。なにぶん明日、僕が行う大半の思考の元となっている高石さんと、僕の仕事の、恐らく今頂点に立つ人をこの目に見る。見終えた後、また、書けるのであれば書評してみたい。今僕が書ける本の感想は、ここまでだ。
僕は監督のことが嫌いなのか、好きなのかどうか、共感できるのかどうか、高石さんを尊敬しているのか、執着しているのか、依存しているのか、確かめなければならない。僕自身がどうなるか全くわからない。
今までのような「わからないことへの」高揚感がない。僕は過去をただ反芻している訳ではないのかもしれない。