書評 声をかける 高石宏輔著 晶文社
- 2017/08/12
- 01:52
アマゾン用レビュー
・内容について。
この本は疲れる。まるで密室サウナの中にいる時に近いものを感じたからだ。風呂は大好きなのだが、どうにもサウナは好きにはなれない。
サウナといってもいろいろあるが、この本はいわゆるスタンダードな、乾燥高熱で汗を意図的に飛ばすタイプで、小さな銭湯に気持ち程度に取り付けられているほど、こじんまりとした、倉庫と錯覚する程度の大きさなもので、恐らく二〜三人は入れるかもしれないスペースだけれども、1人が入っているのがガラス窓から見えたのなら、入るのは躊躇われる、それほどまでに狭く圧迫感があり、尚且つ孤独で外からはジロジロと目線を受け続けてしまうタイプのサウナのような、僕が一番嫌いなタイプのサウナを模したような本だった。
文を読むたびに疲れる事を目一杯やらされたような気持ちにさせられる。主人公と同じ「ナンパ師」と呼ばれるもの達は、あの本を読んでもきっと傷付いたり、悲しくなったりはしないだろうと思う。何故ならあの本の主人公と同じ苦痛を現実の世界で味わっているからである。彼らなら、このサウナの中で上手くやっていく術を持っている。自分のペースを確実に理解している。水分を持ち込んでサウナの中に居座り続けるものも中にはいるかもしれないし、そもそも読まないという選択肢を取る者の方がもしかしたら多いのかもしれない。
僕は三回に分けてこの本を読んだ。三度目、本を開いた時はまとまった時間があったため、喫茶店でキンキンに冷やされたアイスコーヒーをすぐになくなってしまわぬよう、本当にゆっくりゆっくりと飲みながら、真ん中あたりから最後まで一気に読んだ。最終章くらいにかけて準備していた僕のアイスコーヒーが切れる。切れてから随分経ったあと、417頁にも及ぶこの本を読み終えた。
このサウナの密室から出た後、最初にした言葉、それが「疲れた」という言葉だった。肺と脳だけが疲弊してまるで汗を大量にかいたかのような、唯それだけの気持ちをあの本は僕に与えてくれたのだった。もっと回数を分けて読むべきだった。
あの本でズタズタにされたかのような気分、嫌な気持ちにされる人は多分ナンパした事ない人なんだろうと思う。自分が見た事のない、ナンパするもの達が見ている景色を見たことによるカルチャーショックによってズタボロにされたんじゃないだろうか。そのナンパをする上で避けては通れないその葛藤の心理の描写が上手く描かれている。「ナンパをする上での心理描写」という表現はもしかしたら違うかもしれない。自傷行為とはこういうものだ、というものを知らない読者たちに「ナンパという例え」を使って説明しているかのように思える。
この主人公にとってこの文は、僕が感じた密室に隔離されたサウナのような感覚では無いようだった。「サウナ本」というのは僕がこの文を書くにあたり思いつきで考えたものだから、当然のことだとは思うのだが、実際のところどうなのだろう。この本を書いた作者は、この本を書いている最中は僕と同じようにサウナに入り続けているような「一種の苦痛」を味わいながら、何かしらの理由を持って、変わらぬ温度で圧迫し続ける熱温に我慢をしながら書いていたのではないかと僕はふと思えた。サウナという、正直疲労で苦痛でしかないあの空間でも、あの空間でしか味わえないもの、得られないものは当然あるのだろう。それはおそらく、別のもので代用できる効果だとは思うのだが、主人公がこの物語の中で傷付きながらもあえてナンパを続けて行くように、このサウナの中に入らずにはいられなかったのだろう。
だが、もちろん当然の事だが内容自体はサウナではない。内容は文章構成の1/3を占めているベッドシーン、つまりは布団の中にいるような温もり、作者の「夢」の中でのもの。ベッドの上に敷かれた暖かい布団の中で夢を見ている少年を思わせるかのようなもの、主人公と作者共々、そう主張しているかのように感じた。
物語の中盤、主人公はナンパという覚めない覚めたくない夢から一度覚める経験をする。心地よく味わっていた夢を唐突に、目の前で自分を見続けていた女に揺すられ起こされてしまうのだ。起こされ、彼女を見送った後、彼はすぐさま来た道を戻る。ベッドの上で新たな女を抱き、再びあの夢を見ようとセックスをする。幸せな夢をいい所で奪われてしまったのだ。きっとまた取り返したかったのだろう。だが、休日の二度寝をした事がある人ならば皆も知っている事だ。一度覚めてしまった幸せな夢の続きというのは、見る事ができない。例えどんなに夢の中の自分を明晰にして、あの幸せな夢の光景を再現しようにも、全くもって出来ないのだ。それはその光景が自分が創り出した虚構である事を自分自身が暗黙に認知しているからに他ならない。夢で触れた女に引けを取らぬ美しさの風貌の、上等な価値のある女に声をかけ、体を重ね合わせ、再びあの夢の同じ光景を己の目の前に配置したところで、あの夢の幸福感は得られず、また、その夢の続きを見る事はできない。幸せだったものの形作った虚構だけが体の中に残る。
主人公はその現に蓋をした。きっと後にも先にもこの夢の先には何もないことを知っている。そしてあの夢の続きも、きっと同じものなのであったろうことを知っている。知っているのだが、声をかけ続けては捨てて行く。声をかけ続けて行くにつれ、矛盾な状態に自らを晒し続けることによって彼は夢の中の黒い温かなぬくもりにゆっくりと体を絡め取られてゆく。物語の最後の女、悠と関わりを持っている時はもう、全身をそれが覆い尽くしていて、幸せな夢という、薬物常習者、ジャンキーとして時の流れに身を委ねているようであった。それはハタから見れば狂気とも、俯瞰した幸福とも言える状態のようであった。
少し話はそれるが、物語の主人公と呼ばれるもの達には主に4パターンの結末がある。己の目標を達して誰からも祝福されるような幸福になるか、狂気に塗れ闇落ちして彼自身の中の幸せを噛み締め周りから孤立することになるか、またどっちつかずとなり「俺たちの戦いはこれからだ」と未来と読者に議題と問題を丸投げする結末、初めの自分に戻りループする、のどれかである。
僕はこの本の結末がこのどのパターンに当てはまるのか、わからなかった。少なくともどれかに該当しているのだろうが、全てに当てはまるような気もする。なにぶん僕は、この本を読んで灼熱に晒されるような多大なる疲労を受けていたので、結末の余韻に浸ることも、作中語られる事のない主人公の物語時点での為人やその後の人生の考察をすることもできなかった。こんな結末の味わいを得たのは僕が生まれてから本を読んで作品を見てきた中では初めてだった。
読まなくてはいけない、そして、感じて想ったことを記さねばならないと意気込んではいたものの、抱いた感想はそれだけだった。前作とは本の形態も、内容も異なるものだから、前作に抱いた感想とはまるで異なる後味となるのは読む前からわかり得ていた事なのに、僕は前作の時のように何かを、何かを学び得るために、これを読まなければ自分が止まってしまう恐れから逃げるように、その結末の認知を自分では到底計り知れない強さの自己催眠によって、蓋をして読み進めていった。それは滑稽ではあるが、さながら、この本の主人公が女に声をかけ続けていく様に、酷く似てしまっているように思えた。
こんなに疲労感を受ける本であるにもかかわらず高評価をする読者の方々はよほど変態でマゾヒストの方々なのだろう。何故僕はこんなにもこの本の内容にではなく、内容を味わって感じた「疲労感」について永遠と語ることができるのだろうか。それはおそらく僕自身が『ナンパは自傷』行為であることについて概ね同意していて、尚且つその自傷行為というのは全般的に、僕にとってただただ疲れるものでしかないことに気がついた。終盤、女に暴力を振るうシーンがある。そのとき主人公は精神がトリップしてしまい、自分自身を蹴っているかのような感覚に陥る。僕は「ああ、この主人公は狂ってしまったんだな」と客観的に作品としてこの描写を眺めることができていたように思うのだが、感情移入は全くもってできなかった。後にも先にも、僕は僕自身を蹴ることはないだろう。彼のように自傷行為を一種の快楽のように、自慰行為のように、永遠と続ける者はこの世の中には沢山いる。しかしそれは全人類ではないだろう。少なくとも僕がその彼らの中に入りえない。理解しがたい。理解することが確実に不可能な次元に彼らはいる。だからかはわからないが、少し、彼らのことが羨ましくも思えた。
・性描写について
このような「ナンパ」を扱う作品は何故だか共通して性描写が大抵省略化される傾向にある。省略された部分に「自分語り」が組み込まれるのだ。過去に自分がどれだけ非モテであっただとか、こんな失敗をし続けてきただとか、そんなような文章がそれらの物語の中の半分弱を占めている。これらの文章は今の自分の存在を肯定した結論へ持って行くための布石の意味合いを持っている。
この本はそんな「自分語り」を大幅に削除している。『僕は25歳だった』という出だしの文章から始まるものの、それ以降、一貫して『僕は僕自身のことを話した』とたった一行で話を済ますことで、主人公自身の情報を極力、意図的に出さないように構成されていた。ふとした時に主人公の過去について触れられるが、結局現在の主人公自身の情報として語られたものは何一つとしてなかった。
これらの「自分語り」を無くした代わりに、ナンパの物語で省かれる傾向にある「性描写」を事細かに詳細に描いていた。このような構成から本書は、既存のナンパ本、ナンパ小説、ナンパブログと比較して、異色が放たれたもののようにおもう。ただ、官能小説としてこの本を見た場合、それは普通のことであり、逆にまだ弱いのではないかと思えるほどの性描写であった。
僕は現在、仕事でAV男優をしているため、女の子を抱く機会がナンパ師同様、多い。この本を読み進める度に、とても共感ができたり、感心を抱いたりする場面や描写、また、僕が男優として性を生きて行くだけでは経験することができない表現があり、僕は読み疲れながらも、それらに取り込まれて行く様に読み進めることができた。今まで僕がうまく言語化することができなかった性行為時に抱く感情や状況、欲望の葛藤などを作者はうまく文章として表現されていたように思う。この部分だけは性行為をする人たちには是非とも確認してもらいたい。
官能小説としてこの本を見た場合、読みやすいものの様に思う。ただ、抜けるかどうかと言われたら少し微妙なところではある。街中や公園や学校などに設置された裸の銅像をみて自慰をすることができぬ様に、エロさが文章としての芸術さに昇華ならぬ、消化されかけている。本の帯、表紙に描かれた絵のような静寂で安定した、青い炎のような性描写であった。副交感神経が活発化されるような文体なので、ボッキはするかもしれないが、写生には至らないだろう。
・この本は勧められるかどうか
この本は読み手によって様々な感情を抱く本であるのはまちがいないだろう。ナンパについて描かれた本だが、これは男女ともに勧めることのできる本だ。
僕は女性ではないので、断定は出来ないのだが、この本を女性が読んだ場合、恐らく帯表紙の本の解説を書かれている文月氏のような感想、嫌悪感を抱くことになるかもしれない。この本には様々なタイプの女性が出てくる。出てきては脱いで行く。男目線で見られた女性達は冷静にも残酷にも客観的に描かれている。恐らくば自分と似たような、もしくは自身が嫌悪するタイプの女性達がいるかもしれない。そんな自身にミラーリングされた物語上での女性達を見たとき、きっと男達にはわからぬほどな嫌悪感を抱くのであろう。体を数回重ねた後、主人公の彼は何ら執着もなく捨てて行くから、その描写を見て、少しはスッキリできるのかもしれない。僕の検討は大きく外れて、感情移入して「そんなんだから捨てられんだよクソアマ!大事にあつかえよクソ男!」とまた激怒してしまうかもしれない。男目線で描かれた女性を見ることができるから、女性はこの本を読むことで、男の扱い方の基盤となるものが出来上がるのではないかなと思う。そういった意味で薦められる。
一方、男には用途別に勧められるか別れる。
この本をオススメできるかどうか、これは書店に足を運んでもらって実際に手にとってもらうのが一番良いのではないかと思った。都内ならば大抵の書店で売っていると思う。是非この本書を手にとってその「重さ」と「分厚さ」を実感してもらいたい。416頁という本の厚さは、一昔前に流行したナンパ本「ザ・ゲーム」を彷彿とさせる。サウナ中の熱気を閉じ込め封印することのできる分厚い扉と同じくらいの厚さがあるのではないかと思う。
それを持ってみて、『重い…』『厚すぎる…』と感じたのなら読むのはやめておいたほうがいいだろう。きっと僕のような疲労感を感じてしまうと思う。ただの興味本意で読むのはやめておいたほうがいい。
文学が大好きで本の描写を味わうことが好きな人達はオススメできると思う。分厚いので読み応えもあるはずだ。非常に秀逸な性表現はあたかもそこに自分がその女と対峙しているかのような感覚を催すであろう。主人公がナンパを続けて狂気の幸福に溺れて行く様も、一つの愉悦として楽しむことができるかもしれない。僕個人としてはこのような愉悦に感激を覚えないので今回のような評価となっているが、何はともあれ本が好きな人にはオススメできると思う。
これをナンパの導入書としてみて見ても、もしかしたら比較的優れた本としてオススメできるかもしれない。本書は『ザ・ゲーム』と同じく、女のことに関して事細かく、書かれている。テクニックの情報量は性描写を省いている『ザ・ゲーム』の方が多いが、本書は日本人が書いている本であるから、翻訳本特有の読みにくさはない。自分自身のイメージを主人公に写し身し易く、ナンパという行為のイメージを掴みやすい。小説のイチ描写としてしか書かれていないが、この本にはナンパをしていくために使えるテクニックが多く盛り込まれている。ナンパに限らずコミュニケーションの技術を芸術鑑賞を楽しむ感覚で身につけることのできる本であるのは間違いがないと思う。
同じ日本人の書いたナンパ本、「僕は愛を証明しようと思う」(藤沢数希著)と比較すると本書は描写数で勝るが、ナンパテクニカル本としての即効性に大きく劣る。『僕愛』はテクニカル本としてわかりやすいように太字を使ったり図を用いたりすることもある。著者は『この本は小説だ』とよくわからないことを口にしていたが、テクニカル本としてはわかり易くまとめられているので、手っ取り早く技術を習得したい方にはこちらをお勧めしたいと思う。比較的薄い本なのですぐに読み終えられると思う。ただ、この『僕愛』は『ザ・ゲーム』に書かれたテクニック量と比較すると遠く及ばないため、より詳しくテクニックを学びたいのであれば、『ザ・ゲーム』を選ぶべきだろう。
本書はただの小説なので、ただ読むだけではナンパテクニックを身につけられる訳ではない。だが、この本を読んでいると途中で何故か、「ナンパがしたくなる」のである。これが良いものなのか否かは定かではないが、ナンパをするための活力を「ナンパをして見たいと思っている人たち」には、この本から受けとれると思う。ナンパとは、テクニックがあればできるようになるわけではない。「声をかけ」て初めてナンパができるようになるのである。上手かろうと下手かろうと、声をかけなければナンパはできないし、また同時にナンパは上手くなっては行かない。この本からナンパに対する活力を受けるということは、『僕愛』を読んでテクニックだけの机上空論者になることよりも、優れたナンパ導入書となりうると僕は言えると思う。ナンパをしたいと思う人物がいたら僕は間違いなくこの本を薦めたいと思う。
多くの方に勧められる本だとはおもう。だが、僕がオススメしたいとは思えない人種がいる。それが今現在ナンパをしているナンパ師だ。楽しくやってこそ「ナンパ」ができる。楽しい行為だからいつまでもやろうと思える。楽しくなければナンパは続けられない。これは不動の事実である。この主人公のように闇に塗れた活動動機をもつナンパ師は「例外なく」ナンパ活動を辞めていっている。性的欲求以外で行うナンパはどんな理由であれ、結果的に良いものを生み出さない。ナンパをするものは皆、本書の主人公のような寂しさを持ち合わせている。その寂しさを意図してみないようにすることでナンパを続けることができるのだ。ナンパ師として凄腕と呼ばれるようになった者たちは皆、これらの部分を見ずに過ごした結果、そんなものは初めから存在しなかったかのような状態に自己催眠しているのである。
この本はナンパ師たちが意図して見ないようにしてきた部分を大々的に掘り下げて描かれている。
ナンパ師であり続けるためには、自分を軽く浮かれた状態にしておかねばならない。でなければ声はかけられない。鳩尾の疼きが感じられる時、それは自分の状態が重く、地に足を掬われている証拠である。
反面教師ができるという意味ではナンパ師達への良い指南書と言えるが、後味はとても良くない。読もうか否か考えているナンパ師は多少の覚悟がいるだろう。「虚しい」だとかいうそんな言葉では片付けられない虚無感を感じ得る。ナンパは健全でかつ、高貴な遊びでなければならない。僕はナンパ師目線としてこの本の評価をつけた。この本を読んで疲れない人たちは、もしかしたら「優秀なナンパ師」なのかもしれない。
・内容について。
この本は疲れる。まるで密室サウナの中にいる時に近いものを感じたからだ。風呂は大好きなのだが、どうにもサウナは好きにはなれない。
サウナといってもいろいろあるが、この本はいわゆるスタンダードな、乾燥高熱で汗を意図的に飛ばすタイプで、小さな銭湯に気持ち程度に取り付けられているほど、こじんまりとした、倉庫と錯覚する程度の大きさなもので、恐らく二〜三人は入れるかもしれないスペースだけれども、1人が入っているのがガラス窓から見えたのなら、入るのは躊躇われる、それほどまでに狭く圧迫感があり、尚且つ孤独で外からはジロジロと目線を受け続けてしまうタイプのサウナのような、僕が一番嫌いなタイプのサウナを模したような本だった。
文を読むたびに疲れる事を目一杯やらされたような気持ちにさせられる。主人公と同じ「ナンパ師」と呼ばれるもの達は、あの本を読んでもきっと傷付いたり、悲しくなったりはしないだろうと思う。何故ならあの本の主人公と同じ苦痛を現実の世界で味わっているからである。彼らなら、このサウナの中で上手くやっていく術を持っている。自分のペースを確実に理解している。水分を持ち込んでサウナの中に居座り続けるものも中にはいるかもしれないし、そもそも読まないという選択肢を取る者の方がもしかしたら多いのかもしれない。
僕は三回に分けてこの本を読んだ。三度目、本を開いた時はまとまった時間があったため、喫茶店でキンキンに冷やされたアイスコーヒーをすぐになくなってしまわぬよう、本当にゆっくりゆっくりと飲みながら、真ん中あたりから最後まで一気に読んだ。最終章くらいにかけて準備していた僕のアイスコーヒーが切れる。切れてから随分経ったあと、417頁にも及ぶこの本を読み終えた。
このサウナの密室から出た後、最初にした言葉、それが「疲れた」という言葉だった。肺と脳だけが疲弊してまるで汗を大量にかいたかのような、唯それだけの気持ちをあの本は僕に与えてくれたのだった。もっと回数を分けて読むべきだった。
あの本でズタズタにされたかのような気分、嫌な気持ちにされる人は多分ナンパした事ない人なんだろうと思う。自分が見た事のない、ナンパするもの達が見ている景色を見たことによるカルチャーショックによってズタボロにされたんじゃないだろうか。そのナンパをする上で避けては通れないその葛藤の心理の描写が上手く描かれている。「ナンパをする上での心理描写」という表現はもしかしたら違うかもしれない。自傷行為とはこういうものだ、というものを知らない読者たちに「ナンパという例え」を使って説明しているかのように思える。
この主人公にとってこの文は、僕が感じた密室に隔離されたサウナのような感覚では無いようだった。「サウナ本」というのは僕がこの文を書くにあたり思いつきで考えたものだから、当然のことだとは思うのだが、実際のところどうなのだろう。この本を書いた作者は、この本を書いている最中は僕と同じようにサウナに入り続けているような「一種の苦痛」を味わいながら、何かしらの理由を持って、変わらぬ温度で圧迫し続ける熱温に我慢をしながら書いていたのではないかと僕はふと思えた。サウナという、正直疲労で苦痛でしかないあの空間でも、あの空間でしか味わえないもの、得られないものは当然あるのだろう。それはおそらく、別のもので代用できる効果だとは思うのだが、主人公がこの物語の中で傷付きながらもあえてナンパを続けて行くように、このサウナの中に入らずにはいられなかったのだろう。
だが、もちろん当然の事だが内容自体はサウナではない。内容は文章構成の1/3を占めているベッドシーン、つまりは布団の中にいるような温もり、作者の「夢」の中でのもの。ベッドの上に敷かれた暖かい布団の中で夢を見ている少年を思わせるかのようなもの、主人公と作者共々、そう主張しているかのように感じた。
物語の中盤、主人公はナンパという覚めない覚めたくない夢から一度覚める経験をする。心地よく味わっていた夢を唐突に、目の前で自分を見続けていた女に揺すられ起こされてしまうのだ。起こされ、彼女を見送った後、彼はすぐさま来た道を戻る。ベッドの上で新たな女を抱き、再びあの夢を見ようとセックスをする。幸せな夢をいい所で奪われてしまったのだ。きっとまた取り返したかったのだろう。だが、休日の二度寝をした事がある人ならば皆も知っている事だ。一度覚めてしまった幸せな夢の続きというのは、見る事ができない。例えどんなに夢の中の自分を明晰にして、あの幸せな夢の光景を再現しようにも、全くもって出来ないのだ。それはその光景が自分が創り出した虚構である事を自分自身が暗黙に認知しているからに他ならない。夢で触れた女に引けを取らぬ美しさの風貌の、上等な価値のある女に声をかけ、体を重ね合わせ、再びあの夢の同じ光景を己の目の前に配置したところで、あの夢の幸福感は得られず、また、その夢の続きを見る事はできない。幸せだったものの形作った虚構だけが体の中に残る。
主人公はその現に蓋をした。きっと後にも先にもこの夢の先には何もないことを知っている。そしてあの夢の続きも、きっと同じものなのであったろうことを知っている。知っているのだが、声をかけ続けては捨てて行く。声をかけ続けて行くにつれ、矛盾な状態に自らを晒し続けることによって彼は夢の中の黒い温かなぬくもりにゆっくりと体を絡め取られてゆく。物語の最後の女、悠と関わりを持っている時はもう、全身をそれが覆い尽くしていて、幸せな夢という、薬物常習者、ジャンキーとして時の流れに身を委ねているようであった。それはハタから見れば狂気とも、俯瞰した幸福とも言える状態のようであった。
少し話はそれるが、物語の主人公と呼ばれるもの達には主に4パターンの結末がある。己の目標を達して誰からも祝福されるような幸福になるか、狂気に塗れ闇落ちして彼自身の中の幸せを噛み締め周りから孤立することになるか、またどっちつかずとなり「俺たちの戦いはこれからだ」と未来と読者に議題と問題を丸投げする結末、初めの自分に戻りループする、のどれかである。
僕はこの本の結末がこのどのパターンに当てはまるのか、わからなかった。少なくともどれかに該当しているのだろうが、全てに当てはまるような気もする。なにぶん僕は、この本を読んで灼熱に晒されるような多大なる疲労を受けていたので、結末の余韻に浸ることも、作中語られる事のない主人公の物語時点での為人やその後の人生の考察をすることもできなかった。こんな結末の味わいを得たのは僕が生まれてから本を読んで作品を見てきた中では初めてだった。
読まなくてはいけない、そして、感じて想ったことを記さねばならないと意気込んではいたものの、抱いた感想はそれだけだった。前作とは本の形態も、内容も異なるものだから、前作に抱いた感想とはまるで異なる後味となるのは読む前からわかり得ていた事なのに、僕は前作の時のように何かを、何かを学び得るために、これを読まなければ自分が止まってしまう恐れから逃げるように、その結末の認知を自分では到底計り知れない強さの自己催眠によって、蓋をして読み進めていった。それは滑稽ではあるが、さながら、この本の主人公が女に声をかけ続けていく様に、酷く似てしまっているように思えた。
こんなに疲労感を受ける本であるにもかかわらず高評価をする読者の方々はよほど変態でマゾヒストの方々なのだろう。何故僕はこんなにもこの本の内容にではなく、内容を味わって感じた「疲労感」について永遠と語ることができるのだろうか。それはおそらく僕自身が『ナンパは自傷』行為であることについて概ね同意していて、尚且つその自傷行為というのは全般的に、僕にとってただただ疲れるものでしかないことに気がついた。終盤、女に暴力を振るうシーンがある。そのとき主人公は精神がトリップしてしまい、自分自身を蹴っているかのような感覚に陥る。僕は「ああ、この主人公は狂ってしまったんだな」と客観的に作品としてこの描写を眺めることができていたように思うのだが、感情移入は全くもってできなかった。後にも先にも、僕は僕自身を蹴ることはないだろう。彼のように自傷行為を一種の快楽のように、自慰行為のように、永遠と続ける者はこの世の中には沢山いる。しかしそれは全人類ではないだろう。少なくとも僕がその彼らの中に入りえない。理解しがたい。理解することが確実に不可能な次元に彼らはいる。だからかはわからないが、少し、彼らのことが羨ましくも思えた。
・性描写について
このような「ナンパ」を扱う作品は何故だか共通して性描写が大抵省略化される傾向にある。省略された部分に「自分語り」が組み込まれるのだ。過去に自分がどれだけ非モテであっただとか、こんな失敗をし続けてきただとか、そんなような文章がそれらの物語の中の半分弱を占めている。これらの文章は今の自分の存在を肯定した結論へ持って行くための布石の意味合いを持っている。
この本はそんな「自分語り」を大幅に削除している。『僕は25歳だった』という出だしの文章から始まるものの、それ以降、一貫して『僕は僕自身のことを話した』とたった一行で話を済ますことで、主人公自身の情報を極力、意図的に出さないように構成されていた。ふとした時に主人公の過去について触れられるが、結局現在の主人公自身の情報として語られたものは何一つとしてなかった。
これらの「自分語り」を無くした代わりに、ナンパの物語で省かれる傾向にある「性描写」を事細かに詳細に描いていた。このような構成から本書は、既存のナンパ本、ナンパ小説、ナンパブログと比較して、異色が放たれたもののようにおもう。ただ、官能小説としてこの本を見た場合、それは普通のことであり、逆にまだ弱いのではないかと思えるほどの性描写であった。
僕は現在、仕事でAV男優をしているため、女の子を抱く機会がナンパ師同様、多い。この本を読み進める度に、とても共感ができたり、感心を抱いたりする場面や描写、また、僕が男優として性を生きて行くだけでは経験することができない表現があり、僕は読み疲れながらも、それらに取り込まれて行く様に読み進めることができた。今まで僕がうまく言語化することができなかった性行為時に抱く感情や状況、欲望の葛藤などを作者はうまく文章として表現されていたように思う。この部分だけは性行為をする人たちには是非とも確認してもらいたい。
官能小説としてこの本を見た場合、読みやすいものの様に思う。ただ、抜けるかどうかと言われたら少し微妙なところではある。街中や公園や学校などに設置された裸の銅像をみて自慰をすることができぬ様に、エロさが文章としての芸術さに昇華ならぬ、消化されかけている。本の帯、表紙に描かれた絵のような静寂で安定した、青い炎のような性描写であった。副交感神経が活発化されるような文体なので、ボッキはするかもしれないが、写生には至らないだろう。
・この本は勧められるかどうか
この本は読み手によって様々な感情を抱く本であるのはまちがいないだろう。ナンパについて描かれた本だが、これは男女ともに勧めることのできる本だ。
僕は女性ではないので、断定は出来ないのだが、この本を女性が読んだ場合、恐らく帯表紙の本の解説を書かれている文月氏のような感想、嫌悪感を抱くことになるかもしれない。この本には様々なタイプの女性が出てくる。出てきては脱いで行く。男目線で見られた女性達は冷静にも残酷にも客観的に描かれている。恐らくば自分と似たような、もしくは自身が嫌悪するタイプの女性達がいるかもしれない。そんな自身にミラーリングされた物語上での女性達を見たとき、きっと男達にはわからぬほどな嫌悪感を抱くのであろう。体を数回重ねた後、主人公の彼は何ら執着もなく捨てて行くから、その描写を見て、少しはスッキリできるのかもしれない。僕の検討は大きく外れて、感情移入して「そんなんだから捨てられんだよクソアマ!大事にあつかえよクソ男!」とまた激怒してしまうかもしれない。男目線で描かれた女性を見ることができるから、女性はこの本を読むことで、男の扱い方の基盤となるものが出来上がるのではないかなと思う。そういった意味で薦められる。
一方、男には用途別に勧められるか別れる。
この本をオススメできるかどうか、これは書店に足を運んでもらって実際に手にとってもらうのが一番良いのではないかと思った。都内ならば大抵の書店で売っていると思う。是非この本書を手にとってその「重さ」と「分厚さ」を実感してもらいたい。416頁という本の厚さは、一昔前に流行したナンパ本「ザ・ゲーム」を彷彿とさせる。サウナ中の熱気を閉じ込め封印することのできる分厚い扉と同じくらいの厚さがあるのではないかと思う。
それを持ってみて、『重い…』『厚すぎる…』と感じたのなら読むのはやめておいたほうがいいだろう。きっと僕のような疲労感を感じてしまうと思う。ただの興味本意で読むのはやめておいたほうがいい。
文学が大好きで本の描写を味わうことが好きな人達はオススメできると思う。分厚いので読み応えもあるはずだ。非常に秀逸な性表現はあたかもそこに自分がその女と対峙しているかのような感覚を催すであろう。主人公がナンパを続けて狂気の幸福に溺れて行く様も、一つの愉悦として楽しむことができるかもしれない。僕個人としてはこのような愉悦に感激を覚えないので今回のような評価となっているが、何はともあれ本が好きな人にはオススメできると思う。
これをナンパの導入書としてみて見ても、もしかしたら比較的優れた本としてオススメできるかもしれない。本書は『ザ・ゲーム』と同じく、女のことに関して事細かく、書かれている。テクニックの情報量は性描写を省いている『ザ・ゲーム』の方が多いが、本書は日本人が書いている本であるから、翻訳本特有の読みにくさはない。自分自身のイメージを主人公に写し身し易く、ナンパという行為のイメージを掴みやすい。小説のイチ描写としてしか書かれていないが、この本にはナンパをしていくために使えるテクニックが多く盛り込まれている。ナンパに限らずコミュニケーションの技術を芸術鑑賞を楽しむ感覚で身につけることのできる本であるのは間違いがないと思う。
同じ日本人の書いたナンパ本、「僕は愛を証明しようと思う」(藤沢数希著)と比較すると本書は描写数で勝るが、ナンパテクニカル本としての即効性に大きく劣る。『僕愛』はテクニカル本としてわかりやすいように太字を使ったり図を用いたりすることもある。著者は『この本は小説だ』とよくわからないことを口にしていたが、テクニカル本としてはわかり易くまとめられているので、手っ取り早く技術を習得したい方にはこちらをお勧めしたいと思う。比較的薄い本なのですぐに読み終えられると思う。ただ、この『僕愛』は『ザ・ゲーム』に書かれたテクニック量と比較すると遠く及ばないため、より詳しくテクニックを学びたいのであれば、『ザ・ゲーム』を選ぶべきだろう。
本書はただの小説なので、ただ読むだけではナンパテクニックを身につけられる訳ではない。だが、この本を読んでいると途中で何故か、「ナンパがしたくなる」のである。これが良いものなのか否かは定かではないが、ナンパをするための活力を「ナンパをして見たいと思っている人たち」には、この本から受けとれると思う。ナンパとは、テクニックがあればできるようになるわけではない。「声をかけ」て初めてナンパができるようになるのである。上手かろうと下手かろうと、声をかけなければナンパはできないし、また同時にナンパは上手くなっては行かない。この本からナンパに対する活力を受けるということは、『僕愛』を読んでテクニックだけの机上空論者になることよりも、優れたナンパ導入書となりうると僕は言えると思う。ナンパをしたいと思う人物がいたら僕は間違いなくこの本を薦めたいと思う。
多くの方に勧められる本だとはおもう。だが、僕がオススメしたいとは思えない人種がいる。それが今現在ナンパをしているナンパ師だ。楽しくやってこそ「ナンパ」ができる。楽しい行為だからいつまでもやろうと思える。楽しくなければナンパは続けられない。これは不動の事実である。この主人公のように闇に塗れた活動動機をもつナンパ師は「例外なく」ナンパ活動を辞めていっている。性的欲求以外で行うナンパはどんな理由であれ、結果的に良いものを生み出さない。ナンパをするものは皆、本書の主人公のような寂しさを持ち合わせている。その寂しさを意図してみないようにすることでナンパを続けることができるのだ。ナンパ師として凄腕と呼ばれるようになった者たちは皆、これらの部分を見ずに過ごした結果、そんなものは初めから存在しなかったかのような状態に自己催眠しているのである。
この本はナンパ師たちが意図して見ないようにしてきた部分を大々的に掘り下げて描かれている。
ナンパ師であり続けるためには、自分を軽く浮かれた状態にしておかねばならない。でなければ声はかけられない。鳩尾の疼きが感じられる時、それは自分の状態が重く、地に足を掬われている証拠である。
反面教師ができるという意味ではナンパ師達への良い指南書と言えるが、後味はとても良くない。読もうか否か考えているナンパ師は多少の覚悟がいるだろう。「虚しい」だとかいうそんな言葉では片付けられない虚無感を感じ得る。ナンパは健全でかつ、高貴な遊びでなければならない。僕はナンパ師目線としてこの本の評価をつけた。この本を読んで疲れない人たちは、もしかしたら「優秀なナンパ師」なのかもしれない。