混沌
- 2016/06/28
- 07:12
『それは、何か理由があってのお誘いですか?』
僕は僕が尊敬している恐れ多い存在の彼にお誘いのメールを送った。感謝の意も込めて『ごちそうさせてください』とのメールだ。と、名目ではあったが、もう一度彼に会って話してみたいと思ったからだった。この欲求は多分、今この自分の持つ現状の不安を取り除きたいが為のだと思う。だからメールを送ったのだ。最初は随分と考えなしに勢いよくメールを送ってしまった。だが送ってからしばらくしないうちに苦悩した。いけない事をしてしまったと気がついた。トンデモナイことをしてしまったと気がついた。彼を失いかねない事をしてしまったと思った。まるで彼の存在を僕の慰めの為の道具として消費させてしまうようなメールを送ってしまったんではないかと、時間が経つたびそう思えてきた。僕のお誘いメールが送られてから半日ほど時が経ち、彼からこんなメールが来た。
僕はひたすらに悩み、途中自らが始めたことの癖に投げ出したくなる様な気持ちを押さえ込みながらなるべくシンプルに、お誘いをした理由を書き並べ、返事をした。悩ませてしまうメールを送ってしまった事に自己嫌悪していた。この自己嫌悪はネットワーク化された現代社会でのやり取りのスピードとは思えないほどのやり取りの遅さを生み出させてしまった。それだけの重たい事を僕はしてしまった。不注意ではない、不慮ではない。僕が意図して行い、取り付けた重りであった。自ら付けたこの重りでこの身が潰されなくなってしまう様な、そんな気がした。
時間は過ぎるだけで、待つ事はできず僕は家庭教師の仕事へ行く。仕事は最悪なスタートから始まった。生徒は折角少しずつ毎日続けていた宿題を今週は一ページも仕上げてこなかった。スマホは親に取り上げさせていたのだが、どうやらそのスマホをこっそりと回収していた様だった。またゼロからのやり直し。
今日はそれを見越しての6時間連続で徹底的にこなす授業だった。毎日やれぬのなら一回の授業で死ぬほどやらせる。親御と話し合った結果それが適するのだと考え、最近はこの生徒にこの様な方針をとっている。苦しい筈なのだが生徒はその方が嬉しいらしい。
だが今日の授業はとてもじゃないが良いものではなかった。今日の目標の半分しか仕上がらず、残り1時間の授業は生徒も僕も睡魔がやってきてしまって、小まめに休憩を挟んだにもかかわらず、予想以上に互いに疲弊してしまっていた。
「今日はここまでにしよう…」
「そうですね…」
そのあと僕は生徒を責めた。今まで意図して避けて来ていたヘドが出るクソのような責め方をした。幸いなのか不幸なのか、疲れがあまりにもでていて、あまり強く責めることができなかった。責めた後、僕は彼女の前で項垂れてしまった。悲しさだとか悔しさだとかそういう感情が湧き上がってきた様な気がした。
「あぁ…どうすれば…いいんだろう…もう、無理なんか…」
「先生。やって来ます。数学、これ全部やって来ます…!」
「全部って…宿題やってこないお前が200枚も…」
「やれます!やってきます!」
僕は彼女の方を見た。彼女はすっかり目を覚ましていた様で随分と逞しい真剣な目をしていた。そんな真剣を目にしたとき僕の中で何かがフラッシュバックし、それが僕を支配した。
(次のシーンどんな感情だっけ?)
「えーと、次は…」
「ん?」
「ん…?あ、いや、何でもない。今日はここで終わりにしようか」
宿題を設定し、ご家庭を後にした。
眠っている帰宅の電車内でラインがなる。
「今日、時間ありますか?」
案件からのラインだった。驚いた。
この案件は営業仲間の元彼女。
『サンピーしてみたいな』
とぼそりと呟いたところ、それならいい案件があると紹介された女の子。その仲間と綿密にやり取りをしながら虎視眈々とメンテナンスをしていた。それが実り逆打診。
『夜ならあいてる』
そう短く返し、直様仲間に連絡を入れる。
『逆アポきた!今日決めてくる!』
すぐに既読となりスタンプが送られてくる。
『即報期待してる』
僕は帰宅し、久々に家を掃除して、自信を持ってアポ先へ向かった。
まだメールに返信はなかった。少し時間が空いたのでツイッターで配信を行った。アポへの抱負だったのだが、独り言を落として行くたびに僕の脳はグルグルと回転していくようで、凄く気持ちが悪くなっていった。不安によるところなのか、恐怖によるところなのか、それすらもよくわからず、意味がわからず気分が悪くなっていた。仲間にアドバイスされ、ゆっくりと息を吸い吐いた。不思議と気持ちの悪さは何処かへ消えていた。落ち着いた様な気がしたので待ち合わせ場所に立つことにした。自信だけはしっかりあった。
僕は敗北した。
訳がわからなかった。去っていく彼女を見届けもせずに仲間に連絡を入れた。
『なんでAV男優であることを伝えたのか』
『普通のOLにはちとキツイだろ』
『男優である事を伝えるのは即の後って言ってたじゃんか』
僕は気が動転していた。呼吸して落ち着いていたわけではなかった。彼の指摘は続く。僕はかなり小さい存在になってしまった様な気がした。その場にいない彼から指摘された事以外にも彼女が去って行った幾つもの原因は僕自身すでに知っていた。何故知っていたのにそれが出来なかったのか。それだけは考えたくなかった。そんな事をしたら自尊心が壊滅してしまう。同時に僕は彼を失望させてしまった事に辛さと重さを感じていた。自尊心だけではない、僕は人との繋がりも失ってしまう事になるのではないかと思った。合流した仲間たち、尊敬していた人やフォロワー。僕はここ最近、随分と人を失っていた。ああそうだ。スマホの画面を落とす時、唐突に思い出す。メールだ。僕は今日、メールを送った彼をも失う様な事をしていた。首を刈り取る死神は僕の背後に到着していて、その刈り取る刃も既に首に押し当てている、そんな状況なんだと思った。再度スマホを立ち上げるとメールアプリにメールのアイコンバッチが付いていた。僕はそれを開かずに閉じた。首は死神に持ってかれていた後だったのだけはわかった。
僕はそんな死から逃げる様に馴染みにありつつあるバーへ駆け込んだ。
バーには相変わらず僕しかいなかった。この店はいつも僕が来るときは誰もいない。偶然なんだろうが、今日はその偶然に救われた、そう思った。僕はママとマスターに今日あった出来事を全て喋り出した。営業アポの事、メールの事、家庭教師のこと、仲間の事、男優の事。全てを爆発させながら話していた。ママが口をあんぐり開けて懐疑な目で、マスターが顎を触りながら静かな目で僕をみていた。ママが僕の終わらない爆発を遮り押しのける様にしていう。
「あなた、異常よ」
僕はハッとした。
「異常、なんですか…?」
「当たり前よ!変態ね、あなたはヘンタイ!」
「ヘンタイって…」
そこからママの僕へのディスが続いていった。これでもかってくらい僕を批判した。フォローする気もない様だった。当たり前の様に僕がそれを受け止めることができたからであろう。マスターはよく喋る人で、いつもはよくママや僕のトークに覆いかぶせていく様に喋る人なんだが、今日はずっと僕の方だけを見ていた。
「…なんで俺、二人にこんなこと話しちゃったんだろう」
ママのディスが止まった。
「二人だけじゃない。なんで僕はあの女の子にAV男優であることを伝えてしまったのか。なんで彼に『いっしょに飲みに行きましょう』ってメールしてしまったのか。なんで彼女に不安を出してしまったのか。正直、俺自身が自らやった事なのに今日の事、全然理解できないんだよ」
「多重人格者なんじゃない?!」
ママは怒った様な感じで言った。
「うーん…」
「少なくともあなたは、いい意味でも悪い意味でも、普通じゃないから!」
僕はママの事を見れなかった。そのまま話しを続けた。
「それぞれがそれぞれの状態で俺の中にあって、それぞれ価値観を持ってて、それぞれ普通っていう基準を持ってる。その普通の基準が極端なのか似てるのか平均的なのかよくわかんないけれど、俺にとってはママに今めっちゃ言われた事も普通の事に感じてるんだよ」
「でも女の子に負い目がある的な事も今言ってたじゃん!そういうとこがおかしいのよ!」
「おかしいのは間違いないんだ。そういう感情はバラバラで存在して、ちゃんと棲み分けしてなきゃいけないのに、今なぜかそれぞれ混ざり合う様になってしまってる。自分でも意味わかんないし、どうにかしなきゃって思ってるんだけれど…」
マスターが口を開けた。
「人格ってのはいずれ、一つにまとまるものなんだよ。」
カランコロン
と、扉が開く。客が入ってきた。ママはホっとするかの様にそちらへ接客しに行き、マスターは僕のグラスを取り、新しいテキーラサンライズを作ってくれた。
僕はスマホを立ち上げ、メールアプリを起動した。彼からの返信が届いていた。それを開いて目に落とす。
『こんばんは。
お誘いは嬉しいのですが、今お話しすると馴れ合いのようになってしまって、今後のことを考えるとあまり良くないかなと。
もしお仕事のことでも、何か一つ大きな節目を迎えられたときにでもお話しするというのはどうでしょう。
そのときは僕が何かごちそうさせていただきます。
お断りするのも心苦しく、僕が機嫌を損ねたりしていることはもちろんありませんので、ご理解ください。
男優業なのか、ナンパなのか、他の何かなのかはわかりませんが、またそのときは懲りずに連絡してください。陰ながら応援しています。
それではまた。』
僕は泣きたくなっていた。
喉元が激しく詰まっていた。詰まるそれをなんとか押し込み、返信のメールを打つ。やっとの思いで返信ボタンを押し終えると、隣でガヤガヤと楽しそうな会話が始まっているのとは別にマスターが静かに僕に言った。
「やりたい事があるんでしょ?」
「うん」
「ならそれに向けて頑張ってほしい」
「…うん」
「色々あるけどさ、何が起きようと、誰になんと言われようと、やる事が大事じゃない?」
「そりゃ、ね」
「…またいつか来てくれるかな?笑」
「………いいとも笑」
僕は店を出た。
家に帰りこれでもかってくらい喚き泣き叫び散らした。
混沌という言葉の意味を知った。