誰かに憧れてその誰かと一体となることを目的にしている人がいる。自身のもつ欲求に対して起こる適応機制の中の一つ、「同一化」と呼ばれるものだ。
憧れという感情ほど、両極端な意味合いを持てる感情はないと私は思う。それは人を成長させたり大きく変化させたりする持続性や瞬発力を生み出す感情エネルギーでもあり、また、それだけではまるで自己がなく形もなく色もなく中身のない存在でしかなく、心底つまらない感情でもある。
欲求とは常に自分の中になくてはならない。例えば「ナンパが上手くなりたい⇨あの人は上手い⇨ならあの人の真似をしよう」この順序なら正常。しかし「あの人になりたい⇨あの人はナンパが上手い⇨ナンパが上手くなるようにしよう」これでは目的が憧れでしかなく、営業技術を高めていきたいと考えていた筈の人がこのような状態になってしまうと、本末転倒、本腰を入れなくてはならない筈の営業行為自体に身を入れ込むことも出来なくなり、割とどうでも良い所に時間と金と労力を費やす事に繋がってしまう。
『ナンパが上手くなりたい』を一次的欲求とすると、『あの人になりたい』というものは二次的欲求である。それが後者では一次と二次が逆転してしまっているのだ。初めは大抵の人が前者であるが、時間が経過していくといつしか憧れを抱く人が現れる。そうするといつの間にか知らぬうちに人は後者になってしまう。いつの間にかであるから本人も気がつかないのだ。それが厄介な所なのである。
憧れが先行し過ぎるとどうなってしまうのか。営業で起こりうる事象で例えるならば「あの人がこういうファッションをしていたから自分も同じものを身に付けてナンパをする!」「この方法で結果は出ないけれど、もっと続けていけばきっとあの人と同じようになれる」「憧れの人がナンパを辞めたから自分もやめる」と、冷静に考えてみれば大変滑稽な現象がおこりはじめてしまうのである。自身にあったファッションをすべきなのだ、自身にあった声かけをするべきなのだ、そうしてそれら自分に合ったものは、本来は自分自身で探り見つけ気がつき実感すべきものなのだ。
厄介なことにこういう人達は、自分が憧れの感情を基にしてそのような行動をしているということに気がついていない。無意識レベルで憧れによる行動を起こしている。
真似することは学習の基礎だ。
だが、その真似とは、上手くなりたいから真似るためのもの。同一化するための真似とは学習ではなく、自らを高めるためのものではない。そうはならない様に、また、そうはさせない様に人間関係とは適度な距離を保つ必要があるのだと感じる。僕は高みへと進まねばならない。一次的欲求として高みへと進みたい野心が内に秘めている。中身を、自己を、型を象り、確固たるそれを形成せねばならない。だから欲求を適応させるために自分以外の何か、誰かと同一化させてはならない。というよりは、同一化する暇と隙間がないはずなのである。本来は。
「意味のない行動なんてものはない」
そう、よく聞く。
しかしながら、非自己的である行動に「意味」があるとは僕は思わない。もしかしたら僕はその様な行動を「無意味」として、意味のない必要のない物にして、僕の体の中から決してなくしてしまいたいから、こう思っているのかも知れない。非自己的と僕は否定するが、実は自己的な行動であるかもしれない。上手く断言できない自分が今ここにいる。