【納涼船講習2日目⑤】QBという男
- 2015/09/30
- 05:39
上野駅始発列車が到着し、私は座席に駆け込む。ぼふっと座席のクッションが凹むのがわかる。
どっと押し寄せてくる疲れに胸元を押されるかのように背もたれに寄りかかる。もう立ち上がることはできないだろう。半開きの口は閉められず、目は勝手に起こる瞬きのみでそこから見ひらくことはおろか閉じることすらもままならなかった。
列車は程なくして発車。到着。自動にドアが開く。人が乗る。乗る。乗る。増えていく車内人口。埋まる座席。人の壁があっという間に視界を横一面に覆う。私はそのそれぞれの人たちの目を見つめていく。
目が死んでる、闇に生きている、即系、非即系、スト高、スト2、営業、社畜、飲み帰り、今日休み、学生、OL、メンヘラ、脳なし。
人間の中身を構成するであろう私が定めた私による言葉で構成されたありとあらゆる「記号」が受動的に流入してくる。それを私の中で作られた、人を見測る物差しがすべての記号を分別、解析、仕分けをしていく。全自動化されたこれらの体内機関がそれらの記号を入れては出、出しては入を繰り返えしていく。何かをするわけでもなく。電車のドアが自動で開き、勝手に人が入り、出てを繰り返すことと同じ様に。ただただそれだけを永遠に無限に繰り返し続けた。
人の入りが変わった。
都を出たみたいだ。
下列車。入ってくる人が減り、いつの間にか視界に隙間ができていた。人間観察はやはり疲れる。人も減ったことだし、私は人を見るのをやめて、高速で流れていく車外の景色を眺め始めることにした。
二日目の始め、流星さんやシンジさんは
「タゲが多い」
とは言っていたが
「講習が成功する」
とは一言も言っていなかった、ということを今更ながらに思い出した。
そんな思い出しが私が二日間封印をしていた内省の世界へと誘った。
今回の講習で私は何を得たのだろうか。
そんな疑問がふと湧き上がった。
私の納涼船での結果を振り返り始める。
0即。
まずその結果がどの答えよりも先に脳に浮かんだ。
バンゲは…?
慌てる様にして二つ目の結果も浮かぶ。私はiPadでラインを開いた。
数えきれないくらいのライン交換はしたが、確実に繋がりそうな案件がたったの一つしかなかった。
そのあとから、さらに遅れて船での細かな内容、例えば凄腕2人から学んだ多くのことや、新しいタイプの女の子との会話の経験、様々な営業師との貴重な出会いなど、己のプラスとなったものがそれらの二点を弁解するかの様に頭にぽつりぽつりと浮かぼうとするがそれらの思考は浮かび切る直前に遮断されてしまった。
自己否定が脳内を覆い尽くしていた。
私はこの2日間で、約50000円を叩き、納涼船でなんの結果も出さずに帰ってきたのだ。
私はあの講習の時間で何が変わったのだろうか?結果はゼロ即だ。納涼船最終日。立てていた目標はなんだ?一即だ。そして今、私の契約数という絶対の数値は何一つ変化はない。客観的に見た私は何一つ変われていなかった。何一つ変われてなどいなかったということがただただ悔しかった。
私は私とは違う価値観、技法、雰囲気、無意識に行っていた間違い、私個人内部における致命的な間違い、そして私自身の完膚なきまでの無能さをこの二日間と50000円で知ることができた。それらは一種のドラマとなり私の最高の経験値として脳の記臆野に刻み込まれたろう。だからゼロ即、金、時間という失ったもの以上に、得たものも大きいはずだった。だがこの時の私は失ったという感情の方が幾分か後者よりも勝っており、形として得られたものが何一つとしてなかったという事実だけが深く深く胸に突き刺さったままで感情がたった一つに囚われていたのだ。失ったものは金と時間。得たものは己の途方もない無能っぷり。そんな真っ暗な結果の言葉が脳一帯を駆け巡る。
私は歯を硬く硬く噛み締めた。それはもう歯が砕けてしまうのではないかというくらいに。
腹が立った。
まず二日間も凄腕の2人に教わっておいて結果を出せなかったという無能な自分自身に。その感情の裏で結果が出せなかったという現実を他人や講習のせいにしたいと腹を立てている自分がいることも知った。そんなワガママな子供じみた責任転嫁をしようとしている自分がいることにも情け無く、更に腹が立った。
三つの感情がそれぞれをメタるように高まりあい、複合され、一つの怒りという感情になっていることに気がついた。
いつの間にか下車駅についていた。
重かったはずの身体は何故か軽くなっており、すんなりと立つことができた。自動ドアが開くのを待ち、空いたと同時にホームに列を作る他人たちと入れ替わる様に下車する。階段を登り自動改札機まで歩いていく。
この駅は改札口の途中に鏡がある。ふと、鏡に映る私が見えた。下半身から順に映る私を見ていた。
そこには浴衣姿の少しだけ胸のはだけた私がいた。さっきまで良くない感情でいっぱいだった割には胸を張り、何だかたくましく見えた。ただ顔は、涙でぐちょぐちょになっていることにきがついた。
改札口付近。早朝の通勤ラッシュで他人の行き来がそこそこあるこの駅で、体は堂々しているのに顔は本当に情けない状態の浴衣の気狂いじみた人間がいた。私はそれを見るのをやめ、改札口に歩を進めた。
こんなに女々しく泣いている自分が本当の私なのだろうか。恥ずかしくて逃げ出したかった。だが逃げ出す場所なんてどこにもなかった。だからこの顔を受け入れるしかなかった。
果たして私はこの講習に、存在していたのだろうか?どうやら私は人と会い会話する時、自分がいたようで実はいなかった気がする。いや、いたにはいたのだ。だがある1人の自分を自分の中にひた隠していた。今泣いている自分のことだ。他人がいる時では大抵引っ込んでしまう自分。本来ならばその引っ込んでしまう泣いてしまう自分もその場にいるべきである。この自分は内省を得意とする。だから他人を観察し会話しながら自分も同時に自己観察していけば己の悪いところにすぐに気が付き、コミュニケーションを会話をしながら自己修正できる。だが私は他人が目の前にいるとほぼほぼ脳の無意識下に追いやってしまう。その方がハイな気分になれて相手にひたすらに関心が向き、どんどん言葉が湧いて出てくる。何より私が二つの人格を同時に操ることが下手くそな不器用人間だからであろう。
私は不器用な人間だ
そんな言葉が私の涙を加速させていく。
たまに他人といるときに内省を得意とした泣き虫野郎の自分が出てきてしまうことがある。A君とシンジさんに自分のことを意味もなく一人で延々と語りはじめてしまったのは、そんな自分が余りにも抑圧されすぎてうっかり漏れていたからだなんだろう。泣きそうだったのはきっとそうなのだろう。だが結局涙として溢れることはなかった。今こうして泣いているのは1人になりその抑圧されていた自分という人間が全面的に出てきたからなのであろう。
歩くたび、その振動が伝わってか、加速した涙が頬を伝っていくのがわかる。目をこすり、ゆっくり歩いていく。財布は一文無しだった。タクシーで帰れない私は歩いて家まで向かう。
どれくらいそんな身も心も足も浮いた状態で歩いたことか。気づいたら公園のベンチに腰をかけ両手で目を抑えながら泣いていた。
怒りはもう静まっていた。
あるのは自己嫌悪だけだった。
嫌悪感が全身を覆い尽くしていていた。
はっはっはっと犬の声が近くでした
「おや、どうしたんだい」
目を開けると1人の老人が立っていた。何だか姿勢のいいつるっ禿げで肌が黒く今までやんちゃしてたようなチャラい感じの老人だった。表情は何だか柔らかくみえた。
逆ナンに少し驚いたが、すぐに心を落ち着かせる。このとき他人と会話をする状態に体を仕上がっていくという感覚がわかったきがする。すーっと背筋から頭に向けて何かが入っていき、逆にすーっと頭から背骨に向けて何かが広がっていく感じ。
「泣いてたのかい」
「はい」
「朝っぱらからw」
老人に笑われた。
ちょっと恥ずかしかった。他人といるのに珍しい。私はその場から逃げ出したい気持ちに課せられた。私はそのまま席を立ち
「そうですねw」
と笑いを返したあとその場を立ち去るためベンチから立ち上がり背を向けようとした。すると老人は
「君僕らと違って随分若いんだから、過ぎたことをあんまり思いつめちゃぁダメだぞ。」
そういって笑顔を私に見せてきた。
私は驚いていた。見知らぬ逆ナンジジイにトランスをかけられてしまっていた。さっきまで幾重にも展開させられていた頭の中の思考がすっからかんに吹っ飛ばされていた。
「ありがとうございます」
考えもせず咄嗟に自然とそんな言葉が口から出ていた。
船上での出来事はこうして過去のものとなった。今ここの場に書き記し終わり、ようやっと私はこの戦場のトランスから抜けることができた。
いろんなことがあった。
感動したり、興奮したり、傷付いたり、必死に口説いたり、学んだり、失ったり、無感情になったり、空を仰いで鬱になり、そして悲しみ苦しみ怒り泣き喚き俯き、目を見開いた。
正直のところ、この納涼船講習は成功したとは思っていない。少なくとも私1人の目線と講習に参加していた他の方々から聞いた話では。もちろん即した人もいたし、他の講習組と比較したら成功、と言えるかもしれないが、客観的な視点で見るならば成功ではないのだろうと思う。
私にとって失ったものはとても大きかった。金なしの人間にとって二日間の50000ってやはりいたかった。人から見たら「ナンパ如きに金を払うなんて馬鹿だなー」とか「ナンパよりももっとやるべきことあるだろー」とか「そんな船とかめんどいことしないでさっさとストに出れば解決」と教えてくれるかもしれない。
だが、講習の結果としてはそれでいいと思ったのだ。
大切なのはこの経験を通じて私がどう変わっていくか、であろう。この経験を通じて変わった、ではない。これからどう変わっていくか、である。
学習のピラミッドというのがある。
このピラミッドはどの学習方法が一番己の中に習熟されていくかを示したものである。そしてこれによると学習というものは講義によって得られるものは5〜10%ほどしか定着しないと言われている。
今回私が受けたものは「講義」に該当する。だから私は営業という学習科目を今回の中で5〜10%しか学習していないということになる。
かの有名な林修講師曰く。「授業とは情報を仕入れる場所だ」と。私はこの納涼船講習から沢山の営業に関する情報を『仕入れて』きた。これらの情報を学習として完全に我がものとするためには、仕入れてきた情報を基にして、このピラミッドの下の方にある、実体験や教えたりする(実際には教えるということは出来ないのでエアで完璧な授業、説明が出来るようになるくらいまでやる)という己自身がやらねばならないことをこれからやっていかねばならないのである。
仕入れ得た情報は本当に沢山あった。その得たものは確実に今後の営業行為に役に立つものだ。それと同時にやるべくためのモチベーション、今やらねばならぬこと、今後私が進むべき方向性というものも見えてきた。講習前に定めた元々の目標がそれらの三つだったから、私の本来定めていた目標は大きく上回っていたと言える。失った、と嘆いた失敗や深く傷ついた感情までもが今の私にとっては大きな収穫だったとも言える。
親身に私にどぎつい言葉の宝具をぶちかましまくってくれた流星さんと、最終日の最後の最後まで私つきっきりで営業をしてくれたシンジさん、そして最終日の相方A君ことアルフ。またいつか会いたいと思っている。だがその会うであろう日はまだ先の事だろうと思う。営業をもっと学習してからでないと私は彼らには会えない。シンジさんのアメリカPUA対決を見に行きたいと戦場に行く前までは思っていたが、今私がやるべきことはそれではないようである。
この文章をまとめていてふとこんなことを思った。
私はいままで過去を睨みつけていた。来る未来を敬っていた。だが生きていくたびに睨むべき過去が増えていった、来るべくして来たその未来は敬うべくものでは決してなくて、睨むべき存在となってしまっていた。
これからは過去を敬おうと思う。例えその過去が無様な生き方だったとしてもここまで生きのびてきたんだ。だからその過去を褒めてやることにしようと思った。
逆にこれからは未来を睨みつけよう。未来に希望を持つのではない。それは明日がある、明日には希望があると次々に先延ばしを行うための口実になってしまうだろう。積み重ねてきた悔しい思いの過去を報いるために、そしてなりたい理想の将来像になるために、これから来るべく未来に注視しよう。敵視しよう。
そうしようと思った。戻り悔やむ事をしない。前に前に進んでいこう。後ろに続いている足跡をみて成長を噛み締めよう。未来がないと絶望するのではなく、今の願望を叶えるために明日という未来を注視するのだ。注視して、今やるべきことをすべきなのだ。
最後になりましたが、納涼船で営業に励んだ全営業師の方々。お疲れ様でした。そして流星さん、公家シンジさん、講習生の皆さん。貴重な体験ありがとうございました。
ここまで納涼船講習の長い二日間を見てくれた方もありがとう。QBはエロトロピー増大問題を解決するため、契約をし、営業に励んでおります。今後ともよろしくお願いします。