捨てれぬ触れれぬ、黒歴史
- 2015/10/26
- 05:44
今でも大切に保管している中学の頃に書いた漫画や小説の黒い(歴史)ノートがある。内容はファンタジーとSF。小説だとか漫画が好きでよく読んでいたのだけれど、読むのよりも「俺だったらこうする」だとか「俺がこの世界にいたのなら」だとかそういった空想や創作が好きだったから、どちらかといえば作る方が好きだった。
小さい頃から何か作るのが好きだった。子供の頃に親から与えられたものはでかいタライ一面に敷き詰められたフリーマーケットだかで親が入手したらしいレゴブロックだけであった。私は無限とも言える数のブロックを色々組み合わせまくってキャラクターを作るのが好きだった。そのキャラクターでままごとというか、戦いっぽい劇みたいなことを弟を酷使してやっていた気がする。長いことレゴにハマっていた(レゴをする子は頭が良くなるというクソみたいな迷信を信じた親にハメられていた?)私が次に遊びの対象に出来たのはプラモデルであった。私の時代はガンダムではなくゾイドだった。ゾイドは別のゾイドのパーツを使ってオリジナルの形にすることが出来たりする。しかもゼンマイで動く。大きな機体は買ってもらえなかったが自分が作ったものがオリジナルの創作物が目の前で動く。それにすごく感激して夢中になっていたのをすごく良く覚えている。ガンダムはないのにガンダムカラーは全色揃っていたからそれらを使ってカラーリングしたりもした。手が毎日まっきんきんだった。そういえば精通した時のオカズはゾイド初代のヒロインであるフィーネだった。
中学に入り、忙しくなって、そして第二次性徴期にはいったからか、おもちゃ遊びはしなくなった。だが創作は止められなかった。1人の世界に没頭することが多くなった。漫画やアニメ少しだけ見ることが出来た。その少しだけ見たアニメの世界を元にして自分の世界をつくり、その中で色々妄想することが多かった。その世界は楽しかった。世の中にあるどの作品の世界よりも楽しいと思えた。自分の世界だからね。だからその世界を具現化しようと考えた。その具現化をするにあたって媒体となったのが、このノートであった。
私は黒歴史であるこのノートを何故だか未だに捨てられずにいる。もう使っていないし、生活に何の支障もない、むしろかさばるし、目障りだり、誰かに見られたらそりゃすごく恥ずかしいから厄介極まりない非常に邪魔な存在なのである。本気で捨てようとライターまでちゃんと用意したことがあった。だが結局捨てられずにいた。なぜ捨てられないのだろう。
きっと夢を諦めきれない自分がそこにいだからだろう。夢とは何だ?何故諦めきれないのか?それはあのノートにある作品が全て未完だからだ。夢とはこの作品を完成させること。夢でありその夢の途中、つまり未完だから諦めきれない。だが。
いつかやろう、いつか仕上げよう、いつか集中する、いつか書き終える、今はまだその時じゃない…そんなことを繰り返していたらいつの間にかこの本の内容を忘れてしまっていた。
でもこの本の存在は忘れたことはなかった。記憶の中に確実に存在している。一度実家を離れ一人暮らしをしたときも親にばれないようにこっそりと引越しの荷物とは別に私の手荷物の中に忍ばせて持ち運んでいた。もっとも、これを雑に扱って、ひょっこり親や弟、友達に存在と痛々しい中身がばれてしまうのではないかという羞恥の気持ちが大半を占めそのような行動に出たと考えられるが。
今もこの本が何処にどの様に保管されているのか、よくわかる。あの引き出しは誰にも開けさせない。仮に開けられても、厳重に奥にかくまってあるからバレることはないだろう。そのくらい厳重に、ましてや自分でもなかなか取り出せないような奥に追いやってしまっている。
そんなに大切で、誰にもばれたくない、そして諦めきれず捨てきれずの黒歴史のノートがあるのならばさっさと奥の引き出しから引っこ抜いて、中身を調べ上げた後、当時よりも増えた言語力、多少汎用的になった表現力、構成力その他もろもろの力を用いて書き上げて仕舞えばいいのではないだろうか。今、ふとそのように感じて筆をとる…というよりはスマホのメモ帳を立ち上げた。
だがそれはどうやら出来そうになかった。どうやら、あのノートを開くことは私にとって、とてもとても心が嫌悪に満たされることであったらしいのだ。もっと言えば、あのノートの存在に私は触れたくないほどの憎悪を抱いているらしいのであった。
何故あのノートの存在を私はここまで嫌悪憎悪するのであろう。
それはあのノートが未完だからである。
未完だから大切に保管している。同時に私はあのノートは未完だから嫌悪し、憎悪している。
未完であることを嫌悪し憎悪するのは何故か。これはもう直ぐにわかった。
私は口だけ野郎で中途半端野郎で怠惰しまくる逃避人間であるからだ。今年に入ってそれは顕著に現れた。
一流の営業師、男優、教育者になると意気込んではいるものの結局楽な方に、努力もせずにだらけてしまっている現状の私。頭の中には営業から契約までの理論があり、口でそのセオリーをあたかも出来るように発するが、ストに出たら地蔵に自己放流、非自己開示に打診地蔵にギラ地蔵。
私はそんな自分が大嫌いである。そんな自分をどうにかしたい。私は常々思っていた。そしてこの感情は、あのノートで作品を作っていた頃、私が抱いていた感情と恐ろしくも一致したのだ。
つまりあの未完のノートとは、今私が忌み嫌悪している自分の人格全ての象徴なのだ。象徴もとより、原点。私が抱く自己嫌悪、自己憎悪の原本なのである。
だから私はあの本を捨てれず、また、あの本に触ることが出来ない。
私はこれからどうすれば良いだろう。私は壮大なファンタジー、スリリングなSFを描く脚本家になりたかった。そんなストーリーが作りたかった。そんなストーリーで人を沸かせてみたかった。昔から人の喜ぶ顔を見るのが好きだったし、同時に凄いねって言われる事に憧れを持っていたから。だからまず、漫画を描こうとした。絵を書くことは好きだったが、文字や絵を結びつけること、コマ割など難しくなってしまって諦めてしまった。でもストーリーは仕上げたかったから今度は小説を書くことにした。地の文ばかりで読み返したらすごくつまらなくなったし、毎日のように筆をとっても書きたいストーリーが進まない。空想は飛躍しストーリー、キャラ、世界観、セリフ等の個々のアイデアはポツポツと湧き出るのだが、それを文字に書き起こし、そして実際の紙に書いていくのが著しく遅かった。だから挫折してしまった。
漫画は一度も完成させたことがない。だからその名残でか、私の中で広がる世界観の一ページを落書き程度に机やノートの余白に書いていたりする。
小説も一度も完成させたことがない。だからその名残でか、自分の言葉を何かしら媒体で世間に発信したい衝動と多くを口にしたい欲求があり、ツイッターやブログもつい長い文を書き綴っていく傾向にある。
まだあのノートはある。そして今もやはり、触れたりしたくないと思っている。
だが、今年度をもって私は今の住居から都内へ移る。その時にあのノートに触れることになる。その引っ越しをする直前までに絶対にあのノートとの折り合いをつけねばならない時が来てしまう。
その時がきたらどうすれば良いのだろう。捨てればいいか?それともまた持っていくか?わからない。わからないのだが…私はこのノートと近いうちに戦わねばならないことは今良くわかった。私は厨二病を拗らせたまま大人になってしまった人間のうちの1人だったのだから。
有耶無耶と拗れ絡まった私の中に通る紐が段々とほつれ始めていた。
小さい頃から何か作るのが好きだった。子供の頃に親から与えられたものはでかいタライ一面に敷き詰められたフリーマーケットだかで親が入手したらしいレゴブロックだけであった。私は無限とも言える数のブロックを色々組み合わせまくってキャラクターを作るのが好きだった。そのキャラクターでままごとというか、戦いっぽい劇みたいなことを弟を酷使してやっていた気がする。長いことレゴにハマっていた(レゴをする子は頭が良くなるというクソみたいな迷信を信じた親にハメられていた?)私が次に遊びの対象に出来たのはプラモデルであった。私の時代はガンダムではなくゾイドだった。ゾイドは別のゾイドのパーツを使ってオリジナルの形にすることが出来たりする。しかもゼンマイで動く。大きな機体は買ってもらえなかったが自分が作ったものがオリジナルの創作物が目の前で動く。それにすごく感激して夢中になっていたのをすごく良く覚えている。ガンダムはないのにガンダムカラーは全色揃っていたからそれらを使ってカラーリングしたりもした。手が毎日まっきんきんだった。そういえば精通した時のオカズはゾイド初代のヒロインであるフィーネだった。
中学に入り、忙しくなって、そして第二次性徴期にはいったからか、おもちゃ遊びはしなくなった。だが創作は止められなかった。1人の世界に没頭することが多くなった。漫画やアニメ少しだけ見ることが出来た。その少しだけ見たアニメの世界を元にして自分の世界をつくり、その中で色々妄想することが多かった。その世界は楽しかった。世の中にあるどの作品の世界よりも楽しいと思えた。自分の世界だからね。だからその世界を具現化しようと考えた。その具現化をするにあたって媒体となったのが、このノートであった。
私は黒歴史であるこのノートを何故だか未だに捨てられずにいる。もう使っていないし、生活に何の支障もない、むしろかさばるし、目障りだり、誰かに見られたらそりゃすごく恥ずかしいから厄介極まりない非常に邪魔な存在なのである。本気で捨てようとライターまでちゃんと用意したことがあった。だが結局捨てられずにいた。なぜ捨てられないのだろう。
きっと夢を諦めきれない自分がそこにいだからだろう。夢とは何だ?何故諦めきれないのか?それはあのノートにある作品が全て未完だからだ。夢とはこの作品を完成させること。夢でありその夢の途中、つまり未完だから諦めきれない。だが。
いつかやろう、いつか仕上げよう、いつか集中する、いつか書き終える、今はまだその時じゃない…そんなことを繰り返していたらいつの間にかこの本の内容を忘れてしまっていた。
でもこの本の存在は忘れたことはなかった。記憶の中に確実に存在している。一度実家を離れ一人暮らしをしたときも親にばれないようにこっそりと引越しの荷物とは別に私の手荷物の中に忍ばせて持ち運んでいた。もっとも、これを雑に扱って、ひょっこり親や弟、友達に存在と痛々しい中身がばれてしまうのではないかという羞恥の気持ちが大半を占めそのような行動に出たと考えられるが。
今もこの本が何処にどの様に保管されているのか、よくわかる。あの引き出しは誰にも開けさせない。仮に開けられても、厳重に奥にかくまってあるからバレることはないだろう。そのくらい厳重に、ましてや自分でもなかなか取り出せないような奥に追いやってしまっている。
そんなに大切で、誰にもばれたくない、そして諦めきれず捨てきれずの黒歴史のノートがあるのならばさっさと奥の引き出しから引っこ抜いて、中身を調べ上げた後、当時よりも増えた言語力、多少汎用的になった表現力、構成力その他もろもろの力を用いて書き上げて仕舞えばいいのではないだろうか。今、ふとそのように感じて筆をとる…というよりはスマホのメモ帳を立ち上げた。
だがそれはどうやら出来そうになかった。どうやら、あのノートを開くことは私にとって、とてもとても心が嫌悪に満たされることであったらしいのだ。もっと言えば、あのノートの存在に私は触れたくないほどの憎悪を抱いているらしいのであった。
何故あのノートの存在を私はここまで嫌悪憎悪するのであろう。
それはあのノートが未完だからである。
未完だから大切に保管している。同時に私はあのノートは未完だから嫌悪し、憎悪している。
未完であることを嫌悪し憎悪するのは何故か。これはもう直ぐにわかった。
私は口だけ野郎で中途半端野郎で怠惰しまくる逃避人間であるからだ。今年に入ってそれは顕著に現れた。
一流の営業師、男優、教育者になると意気込んではいるものの結局楽な方に、努力もせずにだらけてしまっている現状の私。頭の中には営業から契約までの理論があり、口でそのセオリーをあたかも出来るように発するが、ストに出たら地蔵に自己放流、非自己開示に打診地蔵にギラ地蔵。
私はそんな自分が大嫌いである。そんな自分をどうにかしたい。私は常々思っていた。そしてこの感情は、あのノートで作品を作っていた頃、私が抱いていた感情と恐ろしくも一致したのだ。
つまりあの未完のノートとは、今私が忌み嫌悪している自分の人格全ての象徴なのだ。象徴もとより、原点。私が抱く自己嫌悪、自己憎悪の原本なのである。
だから私はあの本を捨てれず、また、あの本に触ることが出来ない。
私はこれからどうすれば良いだろう。私は壮大なファンタジー、スリリングなSFを描く脚本家になりたかった。そんなストーリーが作りたかった。そんなストーリーで人を沸かせてみたかった。昔から人の喜ぶ顔を見るのが好きだったし、同時に凄いねって言われる事に憧れを持っていたから。だからまず、漫画を描こうとした。絵を書くことは好きだったが、文字や絵を結びつけること、コマ割など難しくなってしまって諦めてしまった。でもストーリーは仕上げたかったから今度は小説を書くことにした。地の文ばかりで読み返したらすごくつまらなくなったし、毎日のように筆をとっても書きたいストーリーが進まない。空想は飛躍しストーリー、キャラ、世界観、セリフ等の個々のアイデアはポツポツと湧き出るのだが、それを文字に書き起こし、そして実際の紙に書いていくのが著しく遅かった。だから挫折してしまった。
漫画は一度も完成させたことがない。だからその名残でか、私の中で広がる世界観の一ページを落書き程度に机やノートの余白に書いていたりする。
小説も一度も完成させたことがない。だからその名残でか、自分の言葉を何かしら媒体で世間に発信したい衝動と多くを口にしたい欲求があり、ツイッターやブログもつい長い文を書き綴っていく傾向にある。
まだあのノートはある。そして今もやはり、触れたりしたくないと思っている。
だが、今年度をもって私は今の住居から都内へ移る。その時にあのノートに触れることになる。その引っ越しをする直前までに絶対にあのノートとの折り合いをつけねばならない時が来てしまう。
その時がきたらどうすれば良いのだろう。捨てればいいか?それともまた持っていくか?わからない。わからないのだが…私はこのノートと近いうちに戦わねばならないことは今良くわかった。私は厨二病を拗らせたまま大人になってしまった人間のうちの1人だったのだから。
有耶無耶と拗れ絡まった私の中に通る紐が段々とほつれ始めていた。