0.1秒と100000000秒
- 2016/02/24
- 16:50
普通、食事とは数分あれば完了する。だが、食事を作ることは決して数分で終えるということはありえない。20分とか、30分だとか、ものによっては1時間以上はかかるだろうか。作り置き等で素早く用意はできるが、その料理にかけた過程を考慮した累計の時間で考えるのならば、食事をするのよりも食事を作る方が時間がかけられているというのは明らかである。
タバコはコンビニで500円を出せばすぐに手に入る。ニコチン中毒者ではやく煙に巻かれたい。そんな人でも急がずとも、5分後には体内に煙が充満しきっていることであろう。そのタバコを作る行程は果たしてどれほどの時間がかかるのであろうか。葉巻タバコを友人に勧められて作ったことがあるが、うまくまけず、すぐに中身がこぼれてしまった。
何かを得たり何かを消費したりするということは大抵一瞬で終える。だが、その消費される物事はそれを形成するに至るまで大層な時間が掛けられている。そんな当たり前のようなことを自炊をしながら、また人から貰った葉巻タバコをすう時に改めて思った。
需要と供給の原理か、労働と経営の原則か、資本主義の本質か。理不尽だなぁと思うことがある。時間をかけて作ったものを提供しているが、瞬間に食い尽くされるし、下手すりゃ不味かったと文句を言われる。作っている側はひたすら責められたらたまったもんじゃないし、褒められたとしてもそんな挨拶も消費するときの時間と同じく一瞬で終えるわけだから、なんか割にあわないなぁとか思ってしまうのではないか?そういうものなんだと受け入れることができる人が労働者となるのであろうか。
世の中は幸か不幸か、ギブアンドテイクだ。与えてもらいたければ与えなければならないし、与えてもらったら与えなければならない。可逆的である。与えてもらうだけの不可逆的とは、この社会ではなりえない。だからこの理不尽を受け入れなければこの社会で生きていくことは出来ない。社会の何かしらの性質によって社会から弾かれてしまうのだろう。
そう、生産と消費の性質を受け入れることのできなかった人はどうすればいいのだろうか。
一つは、自分はか弱い人間ですと、社会にアピールすることだ。どうしようもない人間に成り下がりそれをアピールすることで無条件に人から物を享受するのである。言い方を悪くすれば、人の優しさや愛情に漬け込むまで人々にアピールを続けるということだ。簡単に言ってしまえば、「メンヘラのかまってちゃんアピール」だ。
もう一つは作らず奪う側に回ることだ。つくるのが面倒、生産と消費の性質を受け入れたくなく、常に得るだけの存在となるために自分を変えるということだ。生産と消費の性質を目の当たりしたということは、自分は今、少なくとも奪う側の人間ではないということがわかる。ならば奪う側になるために試行錯誤を重ね、努力する必要がある。時間はかかるかもしれないが自分の欲望のまま、奪い続けることのできる人間になれるよう、奪う人間になるにあたり必要となる技やスキルを磨くのである。
結局、生産と消費の性質を受け入れなかった2者とも、前者は無限の享受を得る為に、後者は永遠の略奪をするために時間を掛けねばならなくなる。人は何かに時間をかけねばならないようにできている。義務的に掛け続けているその時間は、ふと、ある時、誰かに、一瞬に、消費されるのである。
ふと声をかけて、振られてしまう。ふと声をかけられて、即られてしまう。100000000秒掛けた振られた時間に対して、0.1秒のスペック落ち。私達はその一瞬を得るためだけに、常に時間を掛けている。やっぱり理不尽だ。