アマゾンクリティック、批判者の感情
- 2016/02/22
- 16:03
この本のレビュー星1の下の方にこの記事の内容のレビューがあります。
私の処女論文()である「僕愛星1レビュー」を久々に見にいったのだけれど、私の批判を超える論理性かつ長文の批判がない!一応傲るのにも理由はあって、批判的部門の有用性の高いレビュー第1位をガチで狙いに行ってたのだ。
にもかかわらず!私の論文()は「つづきをよむ、が表示されない」レビュー群たちの有用性よりも下回ってしまっていた。
傲慢な私の腹が立った。悔しい、悔しすぎた。何故評価されない!どうせなので理由を考えることにした。生産性のない事だとは思うがこの「超論理的批判()レビューが評価されない笑!」ことについて 今少し考えてみる。
一つは
長文の批判は一種の愛と思われてウケが悪く同意を得られないのかもしれないということ。こればかりはしょうがない。あんな金にもならない場所に時間をかけてしまうのが私の趣味なのだ。
二つ目は
私の批判はあの手の本の批判のニーズとはちょっと違ったのかもしれないということ。これに私は少し引っかかるものを感じた。アマゾンでレビューを書いた当初、ちょこっとだけ恋愛工学徒の方々から反応があった。有名工学徒の方々の求めている『議論欲』というものをちょっとは刺激できたのかもしれない。私の思惑通りであった。
だが私の思惑はそれ以上事を運ぶ事はなかった。恋愛工学徒の方々にはちょこっとは反応されたけれども、他の批判者たちには反応、もしくは評価される事は、どうやらなかったようだった。私が感じたツマンネーナーと思ったところと、他の批判者とそれを評価する多くの人たちが思う感情とは幾分か異なっている事が容易に推測できた。彼らの気持ちを代弁したレビューがどうやら高い有用性を得ているのだ。
その『彼らの気持ちを代弁したレビュー』というのが単純明解に「ゴミカス」と書いたものなのであった。
童貞の妄想だとか、非人道的とか、パクリ乙とか、幼稚とか、そんなような事を書き並べておけば高い有用性を得る事ができる、ようなのである。
それって果たして批判レビューなの?っと私は思う。批判するのだったら「どこどこの部分がこうであり、なになにと比較するとなるとこうであるから、こういった結論を導くことができる」というようにすべきだし、そうであるべきだと私は小学校の頃の論争の時間で学んだのだが世間はそうではないのだろうか?
感情論で語るものは説得力は正直、ない。だが高評価を得る事ができる。この本においては。何故なのか。ただ感情の共感を得た、それだけの事だ。それだけの事なのだが侮れない。女性関係に通ずるところがある。どれだけ男性や営業を否定していても、それにウンウンとうなづいていればコミュニケーションがうまく回るし、そこから股を開かせてしまう凄腕の人たちがいるってのは周知の事実だと思う。
残念ながら、あそこのレビューにはそういった(議論人間からすると)くだらなくて仕方がない人間のタチの悪い性質みたいなものが滲み出てしまっているように感じた。結果、なんとなーくだが、批判感のない、「この本をちゃんと読んで批判したレビュー」がないような感じがするレビュー合戦になっている、ような気がした。星1の人たちのレビューは星5の大半を占めている恋愛工学徒たちの「この本の感想でなく恋愛工学の感想を述べているレビュー」に近いものがある。両者とも、本をしっかり読んでいないのだと思われる。
両極端の人たちが本をしっかり読んでいないでレビューを書いている可能性が垣間見えると、なんだか、好きと嫌いは紙一重という言葉は、上手くできた言葉だなと思えた。(意味は違う気がするが)
因みに散々煽っているが、別に論理的だから長文だから偉いみたいなものはない。私は本書を二回しか読んでない(読んだ後切断し、データした後、新聞紙と共に捨てた)し、他のレビューも実は流し読み。何故なら長ったらしい文を読んでいると眠くなるのである!私もレビューの批判をしておきながら批判に足りうる材料を揃えていないのである!この事実から、少なくともこの記事からは到底論理的な文を作るとは私からは微塵も感じさせられないが、あの論文()も客観的に見るならば別に論理的な批判でもなく、批判レビューなのに抱擁した内容を後半にちょくちょく散りばめてしまっているので、実は論理的な批判レビューとはいえないのだ。そもそも論理的な批判とやらは正直疲れる。作っている時は眠くなるし、読んでいるときも眠くなる。恋愛工学徒の方々からの具体的な指摘を欲していたが、特にはそういった反論なるものがなく、悲しかった。(それに伴って期待できる売名も上手くいかず!姑息である。実に姑息である!)
何かを批判するときはもう少し切れ味のあるシンプルで分かりやすい文をかけるようにするべきか、もっと複雑混沌理解困難入眠的な、私がやりたいような文体でやるべきか。今後の文字生活の考えるべくところではある。少なくとも私を含めた今の世間に求められているものは短文明解の文であるし、女の子とのコミュニケーションでは、論理的()にならないように気をつけねばならない。二村ヒトシ監督にリツイートされていたのは驚いた。