何故地蔵してしまうのか。セックスよりも自分が大切だからだ。セックスをする事よりも自分が人から傷付けられることを恐れているからだ。何回も何回もガンシカされ罵声を浴びせられドタキャンされグダられてもそれに恐怖するというのは自分が未だに大切だからだ。
何回やっても初めは振られる前提である営業行為に未だに慣れないのは相手に拒絶されるのが怖いのだ。セックスよりも自尊心が大切だからだ。セックスがしたくてしかたない、人とのつながりが欲しくてしょうがないのであれば、心から欲するはずだ、歩みを女の子にへと進めるはずだ、何遍も何遍も声を掛けるはずだ。
それでも出来ないのであればそれは、営業して自分が傷付くことよりも自分の心が傷つかないほうが大切だからなのだ。大切にすれば良いと思う。だがその自尊心は何れ増大し、傲慢へと移り変わっていく。
仲間がいれば君は声をかけるだろう。だが君は1人では声をかけられないだろう。仲間といるとき確かに君は沢山の女の子に声をかける。だがその時の君の声かけは声かけではない。女の子に声をかけていない。声をかけている自分を合流した仲間にただ見せつけているだけなのだ。君は即るために「ナンパ」をしていない。承認欲、顕示欲を満たす為に「ナンパ」をやっているだけに過ぎないのだ。
君達は「俺が声をかけてやったのになんでシカトするんだ。」とすら思っている。「俺が飯を奢ってやるのに何故ついて来ようとしない」とでも思っている「俺がセックスしてやろうとしてんのに何故股を開かない」とも思っている。日々重ねてきたグダは女の理不尽なキマグレとも思っている。俺様が第一。全ては俺様の為にある。俺様の通りにいかないのは俺様でなくお前が悪い。とでも思っている。
君はどっちだ?これまで通り、王であり続けるか?それとも自分の国の負けを認めて降伏をし、晒し首なり奴隷なりになって自分自信を殺すか?殺されてみるか?殺されたら、辛いぞ?終わりが見えないぞ?永遠だぞ?痛すぎるぞ?苦しすぎるぞ?悲しすぎるぞ?それでもお前は死にたいのか?
死ぬってなんだろうなと思う。自分が変わるということは死ぬこと、という理論を私は持っていた。ある人にそれを伝えたら、全否定された。彼女は自分が変わるという事は過去の自分を積み重ねていくことだと言っていた。
そんな彼女は一度私と結ばれたが、時が進み私との思い出をなかったことにしたようだった。新しい彼との時を進めているようだ。その時より私は確信してしまうことになった。自分が変わることは死であるという事に。
「ナンパ」することが死に繋がると考えている人は、「ナンパ」という行為が自分自身を構成する人格がなす筈の行為とは全く逆の方向性を示しているからであると思う。新しい人格が自分の中で生まれる。本来の人格を脳にひた隠し、新たに生まれた人格で女の子に声をかけ続けていく。それは本来あるべく筈の自分と現実の自分との乖離を広げていく事になる。二重人格のようだ。
相反する人格だからか行動によって乖離する場合、葛藤をすることになる。その行動を良しとした場合、もう片方の人格は否定され、なきものにされてしまうからだ。その葛藤は両者が交わり、更に新しい人格となる、ということはなく、どちらかを消し去るということで折り合いをつける。私はこの消し去られてしまった状態を自分が変わっただとか、自分を殺したのだとか、そういう表現をしていたのだと思う。人格を消し去った直後は、とてつもなく感情が高まった状態になる。そして謎の万能感を得て、行動を開始する。
だが実は、人格は消えて無くなったわけではない。一時的に消し去っていただけで、片方の人格は完全には死んでなかった。奴がゾンビのような不死なのか、自分の殺し方が甘過ぎだったのか。結局自分の中に現れて、また葛藤をさせる。葛藤を繰り返すたびにどちらかが消えそしてまた現れる。完全に殺しきることができたのなら、例えばこと「ナンパ」においては、女の子に初めて声をかけた時点でそれ以降は地蔵をする筈がないく、「女の子をナンパする」という行為そのものが自身の人格と同調された行動となるはずなのに、相反する行動の域をでることがない。その「自身との同調ができず相反さざるをえない行動」を繰り返すたびに、自分が変わると称した、殺害と称したそれが何度でも繰り返されていく。普通に考えたらおかしい。死とはもうそこから先がないはずなのに、結局はまた同じことを繰り返す。つまりこれらの葛藤と人格の乖離というのは、少なくとも、人格が変わっただとか、自分を殺しただとかそういうものではないのだろうなというのがなんとなくだがわかる。
実際に人格を乖離することはできないのだ。完全に人格が乖離するということは二重人格になるということであるが、恐らく病院に行っても、普通ですよそれと、判断されて門前払を食らうことになるのだろう。もしかしたら本当に乖離しているのかもしれない。だがはたから見たらそれは些細なものにしか過ぎないのだ。
何故完全な人格乖離が起こらず二重人格にならないのか。それはこれら二つの人格が自分の中で発現したものに過ぎないからだ。新しい人格がでようにもそれは結局は自分自身なのだから、本来の人格も新たな人格も違うようで、同じ存在でしかない。だから自分を変えようにも、自分を殺そうにも、うまくいかない。はたから見たら実に馬鹿馬鹿しい「自己葛藤オナニー」を展開しているだけに過ぎないのだ。戦っている本人は気がつかない。何故なら本当に別の自分自身が体の中にいて、それと本気で葛藤し、戦っているのだから。
あの人は本当に私と築きあげてきたであろうものをなかったもののようにしていた。彼女の中で何かが絶対に変わったんだろうなと、そして自分自身を殺したのだとそう私は思い込んだ。思わざるをえなかった。いや、というよりかはもしかしたらそうであってほしいと私が勝手に希望を抱いていたのかもしれない。だが、彼女にとってはあれは死のそれではなくて、私を含めた他の過去を積み上げた上での今の自分なのだろう。結局「だろう」というだけで、人のことはよくわからない。
地蔵の言い訳を長ったらしく書いてみたらこんなようになってしまった。「ナンパ」を死と表現する人の1人にツイッターでブロックされた。それに何か思うところがあってか、ふと思い出してからなのか、地蔵について書いていた文章になすりつけるように追加して書いてみた。