捻れる
- 2016/11/18
- 05:33
彼はしきりに
「ツイッター辞めればいいとおもうよ」
と僕に言った。
「完全に廃人だよ」
僕は返事をする。
「そうだね、間違いないね」
「ツイッターやるためにナンパしてるんでしょ?」
彼はそう、何度もツイッターという言葉を使ってきた。
「うーん」
「だってqbさん、フォロワーの数とか気にしてるみたいだし、そういう欲求に囚われているんでしょ?」
「まぁー、間違いないね」
この時、なぜか僕は、彼が『ツイッター』についての話題をする返しの言葉に『間違いないね』と口にし、繰り返しているのに気がついた。
営業仲間で、僕の中で一番馬が合い、故に合流を重ねていたPUAの言葉で言うならばウイングともいえる彼。僕が彼に「同じパターンの言葉」をしていたという事に気がついた刹那、今まで見ようとしてみてこなかったものが僕の目へと押し寄せるようにして入り込んで来た。そうだ。『彼はまるでツイッター廃人=悪=気持ちの悪い存在、というイメージに縛られている。』『また同時に、ツイッター廃人をする僕に対して、彼の抱くその嫌悪感を押し付けようとしている。』『僕が彼に悩みを打ち明けた時は決まって「ツイッター辞めたほうがいいよ」と無理矢理取って付けたこじつけのように、口を動かしている。』そんなように見えて来てしまったのだった。
「確かに彼はこじつけていて、正直度が過ぎていたのかもしれない。」とその視野を手に入れてしまった僕の目は脳裏にて呟く。
「ツイッター」が全ての原因であるという理由は余りに論理的ではなく不明瞭で、僕の本質、核心をついていない発言なのは間違いない、ただの彼の嫌悪感の押し付けでしかない。僕はどうやらそう思っていたようだった。僕は意識化に浮上させないようにしていたのだ。彼の頑なさに今までその言葉を耳もくれずに、まるで聞き流すかのように、「まぁー、間違いないね」と全く同じ音程、全く同じ声量で全て同じ言葉で返答していたということに。
このことに気がついたのはとてもとても驚くべき事であった。彼は僕のウイングだから、そうみないようにしていたのかもしれない。
僕は確かに「ツイッター廃人」であるのは間違いがなかった。常々抱き続けている寂しさをツイッターで解消しているというのも幾分と前に気がついていたし理解していた。僕はそれを知りつつもツイッターを長々と毎日更新している。
その事に気がつく前はたしかに悶々とした気持ちではあった。あぁまたツイッターを開いてしまった、どうでもいいツイートをしてしまった、感情の垂れ流しツイートをしてしまった、と怠惰的な自己嫌悪を抱き続けていた。だがその自分自身に気がつけた今では、逆にツイッターを楽しむことができていた。特別悪い事にも感じていない。むしろツイッターをやることでメリットとなることに意識が向くようになっていた。
だから彼が「僕に抱いて欲しいツイッターに対する嫌悪感」というのはとうに経験済みで、僕はもうその先に来ている。そう確信というか、気持ちが強かったから、返答として「まぁ、間違いないね」と肯定はしつつも、彼が僕に向けて発する「ツイッター」発言は本当の意味で僕の耳の中に入ってくることはなかったようだった。
なぜ、「間違いないね」だったのだろうか。それは彼の意見は確かに正しいものだからだ。間違いではない、だけれど僕は違うと思う、そういうニュアンスが無意識のうちそういった言葉として出て来ていたのだろうと思う。
僕は無意識下で彼の頑なさを感じ取っていた。これはとても恐ろしい事だった。僕自身も彼に対して頑なに、耳を向けずにいたという事であるからだ。
僕は彼の「ツイッター嫌悪」を肯定する事にした。彼の抱く嫌悪と頑なさ、僕が知ってはいけないと頑なに無意識下に押し込んでいたそれを受け入れなければならない。そう感じた。そうでなければ僕は変われそうになかった。それは彼も変わって欲しいという僕の願いが多少なりとも入っていたかのようにも思う。
僕は「ツイッターを生活から切り離した生活」を想像した。どんな感じがするのだろうか。怖じ気付いている自分がいた。何か失いたくないと嘆いている自分がいた。
ふとイメージとして僕が普段ツイッターを使用している風景が頭に浮かんだ。フォロワーが1人2人と増減するたび心が踊ったり凹んだり、どんな人がフォローしたのだろう、誰がリフォローしたのだろうと、もう慣れた手つきで反射的に「フォロワー」と書かれたアプリ内のリンクを押している僕の姿が第三者視点、客観視点からみえる。彼の嫌悪意見を受け入れなければ気がつくことはなかったろう。画面がフォロワーのリストとして切り替わる間のラグ、ほんのコンマ秒程の時間、僕は完全に無意識、トランスに入っていること。僕は呼吸をしておらず、感情には空白のようなものが生じ、心臓が止まっていること。回線の都合でラグが長い時、僕の脳の血液量は一時的に倍増していて、あの空白のような感情はイライラだとかハラハラだとかいった不安や期待などといった感情だったということには。
間違いない。僕はツイッターに病的に依存していた。いいや、病的に依存していることはもちろん知っていた。その依存がどれだけのものなのか、どういう依存の仕方をしていて、どんな症状が出ていたのか、そんなとこまでがだんだんと明瞭下されて来てわかっていくような感覚を覚えていた。
また、「常々抱き続けている寂しさをツイッターで解消しているというのも幾分と前に気がついていた」ということに理解していた気になっていたことにも気がついた。何故そうなのか、何故そうなったのかという根本的な原因が僕自身導き出せぬまま何と無くの確証と頑なさを保ちたいがための気持ちによって「実は曖昧なままであった」ということに気付かされた。貴重な学びとなっていた。
僕は内省して出てきたほんの一部の言葉を彼に伝えていた。彼はそれ以降他のことを言ってくることはなかった。
僕はネット社会に完全適合した世代の人間で、ブログを見て、ツイッターを見てこの「営業」をはじめた。営業をするきっかけが、「女の子とセックスがしたい」「彼女が欲しい」それだけではなかった。むしろ他の原因、「仲間が欲しい」「寂しさを間際らせたい」が主体となっていて、活動を続けるたび「ナンパするための正当な理由」から遠く遠く離れて行くような現象に陥っていた。最近はそれが露骨でどうにも「女の子に声をかけられない」やりたいのだけどやりたくない。
「地蔵じゃん」
「いつまでも初心者の感情で止まっている」
僕は単なる拗れと言うよりは完全に捻れきってしまっていた。女の子を見るたびにやらなきゃと駆り立てられる、でもやらない。このこじれについては今は紐解く必要はないと何故だか思った。時計を見たらそろそろ帰らねばならない時間だった。
「ナンパ師同士の合流とかやめたほうがいいんじゃない?」
彼がそう呟く。
これは彼との別れを意味しているのだろうか。さっきの学びはどこへやら、なんだか気が引けてしまっていた。やはり機械的で論理的で、悪い言い方をすれば無慈悲である人間が好きだし、僕は尊敬に値するものだと思っているし、そうありたいと思っている。だから僕は嫌悪から快楽からそれらの刺激と行動を透明化させて学びを得て行く。これからもそうして行こうと思っている。だけれども人間というのはそう言うものなのかな、と思いはじめた。
何故だか再度「ナンパ」ができそうな気がしてきた。
「ツイッター辞めればいいとおもうよ」
と僕に言った。
「完全に廃人だよ」
僕は返事をする。
「そうだね、間違いないね」
「ツイッターやるためにナンパしてるんでしょ?」
彼はそう、何度もツイッターという言葉を使ってきた。
「うーん」
「だってqbさん、フォロワーの数とか気にしてるみたいだし、そういう欲求に囚われているんでしょ?」
「まぁー、間違いないね」
この時、なぜか僕は、彼が『ツイッター』についての話題をする返しの言葉に『間違いないね』と口にし、繰り返しているのに気がついた。
営業仲間で、僕の中で一番馬が合い、故に合流を重ねていたPUAの言葉で言うならばウイングともいえる彼。僕が彼に「同じパターンの言葉」をしていたという事に気がついた刹那、今まで見ようとしてみてこなかったものが僕の目へと押し寄せるようにして入り込んで来た。そうだ。『彼はまるでツイッター廃人=悪=気持ちの悪い存在、というイメージに縛られている。』『また同時に、ツイッター廃人をする僕に対して、彼の抱くその嫌悪感を押し付けようとしている。』『僕が彼に悩みを打ち明けた時は決まって「ツイッター辞めたほうがいいよ」と無理矢理取って付けたこじつけのように、口を動かしている。』そんなように見えて来てしまったのだった。
「確かに彼はこじつけていて、正直度が過ぎていたのかもしれない。」とその視野を手に入れてしまった僕の目は脳裏にて呟く。
「ツイッター」が全ての原因であるという理由は余りに論理的ではなく不明瞭で、僕の本質、核心をついていない発言なのは間違いない、ただの彼の嫌悪感の押し付けでしかない。僕はどうやらそう思っていたようだった。僕は意識化に浮上させないようにしていたのだ。彼の頑なさに今までその言葉を耳もくれずに、まるで聞き流すかのように、「まぁー、間違いないね」と全く同じ音程、全く同じ声量で全て同じ言葉で返答していたということに。
このことに気がついたのはとてもとても驚くべき事であった。彼は僕のウイングだから、そうみないようにしていたのかもしれない。
僕は確かに「ツイッター廃人」であるのは間違いがなかった。常々抱き続けている寂しさをツイッターで解消しているというのも幾分と前に気がついていたし理解していた。僕はそれを知りつつもツイッターを長々と毎日更新している。
その事に気がつく前はたしかに悶々とした気持ちではあった。あぁまたツイッターを開いてしまった、どうでもいいツイートをしてしまった、感情の垂れ流しツイートをしてしまった、と怠惰的な自己嫌悪を抱き続けていた。だがその自分自身に気がつけた今では、逆にツイッターを楽しむことができていた。特別悪い事にも感じていない。むしろツイッターをやることでメリットとなることに意識が向くようになっていた。
だから彼が「僕に抱いて欲しいツイッターに対する嫌悪感」というのはとうに経験済みで、僕はもうその先に来ている。そう確信というか、気持ちが強かったから、返答として「まぁ、間違いないね」と肯定はしつつも、彼が僕に向けて発する「ツイッター」発言は本当の意味で僕の耳の中に入ってくることはなかったようだった。
なぜ、「間違いないね」だったのだろうか。それは彼の意見は確かに正しいものだからだ。間違いではない、だけれど僕は違うと思う、そういうニュアンスが無意識のうちそういった言葉として出て来ていたのだろうと思う。
僕は無意識下で彼の頑なさを感じ取っていた。これはとても恐ろしい事だった。僕自身も彼に対して頑なに、耳を向けずにいたという事であるからだ。
僕は彼の「ツイッター嫌悪」を肯定する事にした。彼の抱く嫌悪と頑なさ、僕が知ってはいけないと頑なに無意識下に押し込んでいたそれを受け入れなければならない。そう感じた。そうでなければ僕は変われそうになかった。それは彼も変わって欲しいという僕の願いが多少なりとも入っていたかのようにも思う。
僕は「ツイッターを生活から切り離した生活」を想像した。どんな感じがするのだろうか。怖じ気付いている自分がいた。何か失いたくないと嘆いている自分がいた。
ふとイメージとして僕が普段ツイッターを使用している風景が頭に浮かんだ。フォロワーが1人2人と増減するたび心が踊ったり凹んだり、どんな人がフォローしたのだろう、誰がリフォローしたのだろうと、もう慣れた手つきで反射的に「フォロワー」と書かれたアプリ内のリンクを押している僕の姿が第三者視点、客観視点からみえる。彼の嫌悪意見を受け入れなければ気がつくことはなかったろう。画面がフォロワーのリストとして切り替わる間のラグ、ほんのコンマ秒程の時間、僕は完全に無意識、トランスに入っていること。僕は呼吸をしておらず、感情には空白のようなものが生じ、心臓が止まっていること。回線の都合でラグが長い時、僕の脳の血液量は一時的に倍増していて、あの空白のような感情はイライラだとかハラハラだとかいった不安や期待などといった感情だったということには。
間違いない。僕はツイッターに病的に依存していた。いいや、病的に依存していることはもちろん知っていた。その依存がどれだけのものなのか、どういう依存の仕方をしていて、どんな症状が出ていたのか、そんなとこまでがだんだんと明瞭下されて来てわかっていくような感覚を覚えていた。
また、「常々抱き続けている寂しさをツイッターで解消しているというのも幾分と前に気がついていた」ということに理解していた気になっていたことにも気がついた。何故そうなのか、何故そうなったのかという根本的な原因が僕自身導き出せぬまま何と無くの確証と頑なさを保ちたいがための気持ちによって「実は曖昧なままであった」ということに気付かされた。貴重な学びとなっていた。
僕は内省して出てきたほんの一部の言葉を彼に伝えていた。彼はそれ以降他のことを言ってくることはなかった。
僕はネット社会に完全適合した世代の人間で、ブログを見て、ツイッターを見てこの「営業」をはじめた。営業をするきっかけが、「女の子とセックスがしたい」「彼女が欲しい」それだけではなかった。むしろ他の原因、「仲間が欲しい」「寂しさを間際らせたい」が主体となっていて、活動を続けるたび「ナンパするための正当な理由」から遠く遠く離れて行くような現象に陥っていた。最近はそれが露骨でどうにも「女の子に声をかけられない」やりたいのだけどやりたくない。
「地蔵じゃん」
「いつまでも初心者の感情で止まっている」
僕は単なる拗れと言うよりは完全に捻れきってしまっていた。女の子を見るたびにやらなきゃと駆り立てられる、でもやらない。このこじれについては今は紐解く必要はないと何故だか思った。時計を見たらそろそろ帰らねばならない時間だった。
「ナンパ師同士の合流とかやめたほうがいいんじゃない?」
彼がそう呟く。
これは彼との別れを意味しているのだろうか。さっきの学びはどこへやら、なんだか気が引けてしまっていた。やはり機械的で論理的で、悪い言い方をすれば無慈悲である人間が好きだし、僕は尊敬に値するものだと思っているし、そうありたいと思っている。だから僕は嫌悪から快楽からそれらの刺激と行動を透明化させて学びを得て行く。これからもそうして行こうと思っている。だけれども人間というのはそう言うものなのかな、と思いはじめた。
何故だか再度「ナンパ」ができそうな気がしてきた。