男の愛とはセックスをすることと言うのならば毎日セックスをしている僕は愛を享受し切れているのか?残念ながら全く感じ得ない。愛があると言う実感がない。たくさんの、美しくて、可愛い子たちと、セックスをして、金までもらっている。僕は男の欲する、愛というものの目指すべき結果を全て持っている。
ただあるのは結果だけだ。方法と工程がそこにはない。結果を得るために踏まなければならないそれらの数々を僕は奇跡的な回避を行い結果だけを手に入れることができた。男はセックスをしたいがために人、女を、それを成す前の段階で、コントロールしたいと、己の虜にしたいと、自分の世界に引き込みたいと、そう思うのだ。
僕の今ある欲求はなにかおかしい。ナンパができるようになりたい、口説く技術を身に付けたい、女を完全に支配したい、己という世界のドラッカーになってもらいたい。そんなのばかりだ。セックスを生業にすることで、セックスまでの一般的な過程をすっ飛ばしてきてしまった。だから今の僕はそのスルーしてきてしまった過程を求めているのだろうか?だがその先にある欲求は間違いなくセックスではない。「ナンパなんてしなくても美人とセックスができるから」だ。だったらそれはなんだろう。寂しさを埋めたいということなんだろうか。
寂しさ。これは僕が今年一番に囚われ続けた言葉だ。去年の今日、高石さんのカウンセリングを受けた時に一番耳に残った「寂しさ」という言葉。北海道での「ナンパツアー」で僕はある人に冷たく攻められた。「仕事することは面倒だ、怠惰して生きることこそが至高で至福のひと時なんです、僕にとってはね」そんなことを言った僕は、彼に攻められる筈でもない理由もない理由でこっ酷く貶され言葉の攻撃を受けた。高石さんはその攻撃を「寂しさによるものかもしれませんね」と僕に教えてくれた。その日から僕は寂しさという言葉、感情を頭の中に常に常駐させることとした。
「君って時々寂しそうな顔をするよね」
随分と前になるか、僕はアポをする時、必ずこの言葉を使っていた。どんな女の子にもこれを使った。どんな女の子にも刺さるからだ。非常に便利な僕のルーティン。
「えっ、そんな顔してました?」「あはは、君ってやっぱり他の人とは違うね」「そうなの…実は」様々だが大抵こんなような言葉が返ってくる。そこから即にもってくには恋愛トークにし、性トークをし、クロージング…という定石はここ以外の既存のブログに何遍も書かれているから、此処であえて触れるということは今はしないが、この言葉は結果の出せるキラートークだと僕は思っていた。この言葉さえあれば誰でも落とせるとも思ってた事があったほどに気に入っていた僕の道具だった。
「そっか、君は寂しかったんだね」
また、相手が対人関係の愚痴を吐き出してどうしよう、と相談を受けているとき。そんな時にもそう言うことで、それがそのまま回答となり、勝手に相手に刺さった。「そうなの、寂しかったの!」と肯定を続けることもあれば、「寂しい、かぁ…もしかしたら寂しかったのかもしれない…」とそこから自ら寂しさを見出しはじめたりする。
「寂しさ」が非常に汎用的な、そして強力な言葉であることは僕は高石さんに実際に会う前から知っていて、使ってきていたのだけれど、僕自身寂しさについて考えたことは全くなかった。実際に僕は「寂しそうな顔をしているよね」と言うときはその子の『顔』を見ていないし、「君は寂しかったんだね」と返事をする時は、その子のする話自体が僕とってはどうでもイイことでとても面倒だし、どんな内容の話をしていたのか、まるで聞いてはいないから、その子と会うための目的を進めるため、間髪入れずにそのルーティンをつかう。寂しさとはその程度の僕にとっての「都合のいい言葉」、結局のところ道具でしかなかった。
寂しさという感情とはなんなのだろうか。あの日から僕はずうっとそれにとらわれるようになってしまった。世間的には、本来はセックスする時には埋められている筈の感情だと僕は思っていた。だから営業で即を重ねれば勝手に消え失せて行く、そんなものだと思っていた。寂しさは以前と変わらず「道具として」使い続けた。でもそれは男が女に抱く寂しさであって、寂しさの本質ではないのはわかる。
男と男とは普通セックスはしない。だけれど僕は北海道でkさんに「寂しさによる攻撃」を受けたわけだ。寂しさと言うものはセックスの道具としか考えていなかった僕にとって寂しさの問題は難解の極みであった。自分でいつも通りに道具を使い続けるたびに、寂しさと言う言葉になにか、モヤつく不快感が脳裏にタグ付けされはじめていることを知った。
寂しさというものがなんとなく見えてきたのは、僕の動向を見守ってくれていた2氏、営業の講習も行なっているZ氏に会った時だった。今年の春先の出来事だ。