書評 『あなたは、なぜ、つながれないのか ー ラポールと身体知』高石宏輔 著
- 2015/05/20
- 04:52
あんまり本は好きじゃない。理由はただ活字を読むのが面倒、集中力を続けるのが辛い…などもあるが最近はもっぱら、その本…著者の考えに影響され、私が変わってしまうことを恐れているからではないかとおもう。人はその状態を保持しようとする惰性欲なるものがあるが、多分それだ。
更には書評も嫌いである。人が書いた書評はすきだ。その本を読んだ気になるのは得意だからだ。だが自分が書くとなると少し違って、そもそも読むのが好きではないのと、読者感想文とか小学校の頃から大嫌いな宿題の一つだった私。昔の私は考えたことを表現する事が苦手だった。
だけれど本を読むということは自分にとって何か良いきっかけを作り出すものだったり、悩みの解決となったり、知識理解をより深めるものだったり、良いことは勿論ある。そして何故こうなったのかは知らないが私は子供の頃と比較すると一人で物事を考察し、文章や言葉、絵など色々な表現方法を持ってそれを露わにすることが多くなった。多くなったというよりは、(何故だか本当にわからないが)好きになったのだ。
だから今後、営業関連の本があり、読む機会が訪れたのなら積極的に考察していく。そしてこの「書評」にもPDCAサイクルを組み込むことにする。何故書評にサイクルを組み込むのかというと、考察し表現することは好きなのだが、私の場合、表現したいこと言いたいこと伝えたいことが文頭からいっぺんに出てきてしまって何が書いてあるか全くわからない文章になってしまうからだ。だからある程度方向性をもたせて書評を書いていきたい。本を読む前の私と読んだ後の私の考えを比較し今後どうしていくべきか、どうあるべきかを考察し、導いていこうと思う。
各段階をこのように設定しておく。
Plan→Pretext。(口実)(何故その本を手に取ったのか。手に取った背景はなにか。読む前に欲している物は何か。その本を読む前のイメージはなにか。この本を読んでどうなりたいか、何を期待しているか。)
Do→Read。(読書)(内容。Readした物。読んでいる自分の様子。)
Check。(感想と考察)(読み終わった後の感情、印象を読む前と比較。何が変わってどうしようと思ったか。Readした部分の自分なりの考え、感想、考察。)
Action。(方針)(今後自分はどうあるべきか、どうすべきか。この本は活かせるか。活かせるとしたら何に活かすか。)
他にいい英語があるかもしれない。学がない私で英語文学を作り上げた昔の人達には大変申し訳ないが、今回はPDCA、もといPRCAに無理やりはめ込んで書評していきます。
そしてもしも書評を見るためだけにこのサイトにこられた方用に注釈。このサイトでは
営業→「ナンパ」
契約→「エッチ」
としています。下らないブログ設定につきご了承下のうえ、お付き合い頂けると幸いです。
Pretext。
高石氏。瞬間でラポールを築くと言われる営業界ではカリスマ的存在。ラポールというのは簡単に言えば人との仲、信頼関係のことで、まるで予知能力者のようにその人物の心の中を見抜き、心を開かせることができる人物である(らしい)。ラポールと身体知という氏のブログは、私がネットで営業のために有効な情報を読みあさっていた時期にに出会った、所謂凄腕の方の「ナンパブログ」であった。
氏の「ナンパブログ」は他の方のそれとは少し違っていた。というか異質に感じた。何が違うのか。そこで異質に感じる物とは、氏のサイトの中の「ナンパマニュアル」なる物の中にある。営業全体を通して、女性を我がものにするまでのフローチャートだったり、ポイントやコツ、テクニックを箇条書きなりなんなりにまとめたりしたものが本来「ナンパマニュアル」と呼ばれるものであるが、このサイトにあるマニュアルは他のサイトのそれとはまるで異なっていたのだった。
このマニュアルは営業において知らない人に声をかけるその行為を躊躇って足がすくんでしまう、いわば地蔵のことについてきめ細かに丁寧に書かれており、オープン時の自分の緊張や会話での不自然さ、それらの状況に入り込んだ時の心構えや心のあり方を中心に他にも…いや、「地蔵をやっとこさ克服し、声をかけて会話を始める」までのみ、ただそれだけを詳細に書き綴ったものなのだ。
営業というのは声をかけ、契約を結ぶまでが一連の流れである。だがこのマニュアルには、そこから話し始めてから何を話すのか、具体例もなにも書かれていない。恋愛トークやセクシャルな話題の持っていき方についても書かれていない。より効果的なボディタッチの仕方なんて書いていない(むしろ営業師の軽率なボディタッチを批判している)。即までの持っていき方の流れなんて書いてない。服装、髪の毛の盛り方なんて書いていない。コールドリーディング、ミラーリングの意図的なやり方なんて書いていない。このマニュアルを全て読み終えた時、「ここで終わり?!」と、あっけにとられた私はこれは本当にマニュアルなのかとサイト内をあっちにいったりこっちにいったりしたものだった。
地蔵はそこそこに克服していたであろう私はそんな事は求めてなんかいなかった。唯一このマニュアル書かれているあるテクニックといえば「トランス」というもの。私はその唯一である「トランス」に、まるで縛られたかのように、相手をトランスにする方法、そこから打診、ギラをつく方法…を自分なりに必死に考察して実践をしていった。上手く行ったり行かなかったり、釈然とはしなかった。原因を追究していくと、相手のトランスを導きやすくするためにはまず自分がトランスに入る必要がある、というのを知り、原因はそれだと思い込んだ。それからは自分をトランスに入れ込む練習を始める事となった。だが何故自分がトランスにならなければならないのか、自分がトランスに入る事で営業にどう影響が出るのか、ちっとも全く分かってはいなかった。
「ナンパは会話の状態でしかない」
そんな哲学のような難解なテーマ沿うかのように高石氏のマニュアルは語っている。私はその本質を全く理解せず、常に釈然としない状態であった。だが、このマニュアルは営業の本質的なことが書かれているのは間違いないと確信が何故かあって、気付いてたら事あるごとにマニュアルを何度も何度も読み直していた。女性に声をかけ、考察をするとき、常にこのマニュアルの視点からの考えを必ず入れるようにしていた。
このマニュアルを頭の片隅に常駐させていたためか、高石氏のことは自分の中でかなり気になる存在になっていた。無論会ったことはない。どんな人なのだろうと一度グーグルで検索をし、YouTubeやニコニコ動画でその高石氏の姿、声を聞いたことがあった。第一印象としてこの人根暗か?と思ってしまった。ボソボソした声は、この人本当に「カリスマナンパ師」なのかと大変失礼なことを思ったりもしてしまった。しかしそんな第一印象を跳ね除ける強い第二印象があった。喋り方と話しの内容だ。「愛のキャラバン」の動画で見て聞くことができる。公家シンジ氏、宮台真司氏、その他ゲストの方々とのトークで高石氏は、とても柔らかい喋り方で、しかし、(特に公家シンジ氏に)相手の意見の核心を細いナイフで突き刺していくかのような形相で会話をしていた。会話がそのような形相なだけで高石氏の見た目とのギャップがあり、とても印象的だった。初めてその動画を見た時はあまりのSさに、この人と話してたら私は赤子に戻った時のように泣き出すな、そう感じた。根暗なんていってごめんなさい、いじめないでください、と会ってすらないのにそう念じていた。実際は繊細で感性の高い人柄らしいのだがこの時ばかりは笑顔の殺人鬼とかまぁ色々と良からぬイメージを持っていたりしていたのだった。
この時、サイト内の「ナンパマニュアル」に書かれていたことを思い出す。あぁ、これが営業師のする「コンプレックスを突き刺すような会話」なのだと。私もやってみようと思い町に繰り出したが、嫌な顔をされガンシカをされたり、はたまた初即ができたり。効果があったのか否か、そしてどうして効果があったのかなかったのか。やはり氏の語るマニュアルの本質を理解できずにいた。
そんな「ナンパマニュアル」を書いていた高石氏が本を出すと聞いて私は驚いていた。何が書いてあるのだろう。営業テクニック?催眠?心構え?自己啓発?
この本を推奨する宮台真司氏のコメントはこうある。「本書は悩む人のために書かれたマニュアルではない。むしろ悩まずにいきている人の歪みに焦点が当てられている。」
それを見て私は得体の知れない暗くて白い何かが心に浮かぶのを感じていた。それが何なのかよくはわからなかった。テクニックでもないがテクニックでもある、催眠をかけられるようで目が覚める、心構えであるが実はそうではない、自己啓発ではなく自己見つめる何か…という矛盾した感覚をこの本の紹介から自然と感じられたのだった。
その矛盾は苦痛なのか喜びなのか、まだ読んでいないからわからない。ならば読まなくてはいけない、と私の知識欲と好奇心の裏に隠された謎の使命感に脅迫されるかのようにこの本を購入するに至った。
Read。
新宿のとある書店にて購入。
スタバにて、いざ本書を読む。
序章。初めて知る高石氏の日常風景や感じ取っている世界が描写されていた。ああなる程と。この人はこういう感じの人だったな。そう感じた。そして共感を持った。私は今自己トランスを習得しようとしていた。だからその私の最近感じている世界と、氏の世界はきっと同じなんだとそう感じた。まだまだではあるが繰り返していけばきっと氏のようなもっと鮮明な世界が見えてくる、とそう感じた。だからこのプロローグは私の中で上手いこと噛み合い情景を思い浮かぶに至った。
(なんだか読みやすそうな、面白そうな本だな。楽しみだな)
そう思った。
本は嫌いではあるのだが、私は集中しだすと時間なんて気にせずに一気に本を読んでしまう。まだ序章であるが、きっとこの本もこのスタバで読み終え、帰りの電車の中ではツイッターにて書評をサクッと書くことができるな、とそう感じた。
目次を読む。
前半は心構え的な何か?
何やら後半の部分は…おおっ?
まさかのテクニックが書かれているようだ。
(思ってたより実践的な営業マニュアルじゃないのこれ)
そう思った。
まるで山の麓までピクニックに行くかのような、そんな軽やかな予感がした。そしてそんな緩やかな地形の行く先には私の求める神秘の道具が眠っていて、その場所へなんの苦もなくたどり着くと、私はいとも容易く神秘の道具である「テクニック」を手にすることができる。そして明日以降、その1700円と税込みの安安で手に入った高級な道具を携えストリートへと身を投じていくのだろう。
ふと、不信感が浮上した。この本の表紙を見て感じ取った暗く白い感情が湧き上がる。果たして本当にそんな本なのか?そんな楽しい安安とした安易な喜ばしいテクニカル本なのか?
私はその不信感とやらを無理やり脳のシワの溝の果てへと押し込むように埋め、組織液で蓋をした。私の営業人生に置いてプラスとなりうるもの、そう期待して、いやなるだろうと予期して一章へと目を進めていく…
そして私は
共感、トランス、世界、情景、集中、期待、予期、そして、思い「込み」を一章から全て否定され、心心共々打ち砕かれることとなる。
この本を読んだ人の感想をツイッター上で見かける。
「温かい気持ちになる」
「気持ちがゆったりする」
「柔らかい感じがする」
私はそうはならなかった。
緊張しっぱなしだった。
私の心は常に緊張しっぱなしだった。
まず私はこの本をイッキヨミするに至らなかったのだ。集中して本に向かうことができない。読了時間は約12時間、三日間に分けて読んだ。ここまで読書に時間がかかる大人がいるか?少なくともこの本を読む層の中にいやしないだろう。
スラスラ読めないと言うことは…そう、この本の内容とは私現在と、目指すべく未来を真っ向から否定する存在、私にとっての苦痛そのものであったのだ。
苦痛である理由を挙げていこう。
この本にはまず、催眠術式が組み込まれている。ページを開いたらバタンキューお亡くなり…みたいな忍者アクションや魔法少女物語のそれではなく、読んでいくといつの間にかうっかりかかってしまっていたという類のそれだ。
この本自体が催眠術を応用して出来ていかのように感じた。いや、高石氏がカウンセラーだから自然とそのような文章構成になるのだろうか?もしかしたらこの本が高石氏の体験に基づくものであるからなのだろうか?それともこの系統の本はこういう文体になるのか?私はあまり本を読まないから実際のところはどうなのかわからないが、読んでいくたびにまるでそこにある言葉とともに体や気持ちの変化が進行していくような、もしかしたら誘導されているような…この本はそんな文体だった。以下の斜体は本書の引用文である。
____そうすると、自分の気持ちがわからなくなる。そして、他人の気持ちも想像できなくなる。ただ、他人に悪く思われていないか、何の手がかりもなく怯えるだけになる。怯えて、安全を確保しようと、自分の気持ちもわからないまま、表面上だけうまくいっているように見えるコミュニケーションの手段を身につけようとしてしまう。それでは自分の気持ちと振る舞いがちぐはぐになって、一向に振る舞いが改善されないどころか、ますます酷くなっていく。(p10)
このように、次に読み手が湧き出る感情や出来事はあらかじめ決められたものであるかのような、まさか誘導されたかのような、そしてもう既に読み手の状況や感情を予測している文の構成となっている。催眠術をかけたり、かけられたりしたことのある人はこの文章をゆっくり声に出して読んでいくと、まるで深いトランスにへと読者を誘導しているような語りに見えないだろうか?
或いは、これはただ高石氏の体験をただ書き綴ったものであり我々が同調して勝手にのめり込んでいるだけなのだろうか?読解力が低い私の思い違いかもしれない。
ともあれ、読者はきっとこうなっているであろう、またはこうであるべきであるという結果と事実を書き記し、もしそれになっていないのならばそこに向けたまた別の誘導を、そして結果が曖昧なものに関しては矛盾点もあるのだということも指摘するような文を織り交ぜながら構成している様は私はまるで催眠術のようだなと感じたのであった。
だが催眠術というのは普段我慢していることや、することが出来るものをあえてさせるためのものであって、受け入れがたいものを受け入れさせる、行わせるといったことはまずない。同人誌でよく見かける、「キモオタが嫌がる美少女を催眠して契約をする」という図は妄想でしかないのだ。
その図が私にも当てはまったのだ。
催眠術式を組み込まれたこの本は確かに私の体の緊張を溶かしていく。体は休まり後は私の意思思考という中心部分だけ。だがその緊張が溶け切った私に、私の考えと異なるもの、中心部を目指し「否定」という形で流れ込んでくる。PUAメソッドの会話ルーティーン、カウンセリングの相槌テクニック、恋愛工学のNLPに問いかける非言語的テクニック、催眠術や人を依存をさせる方法など…私が身につけたもの、またこれから身につける予定のこれらのテクニック…の否定がこの本にあった。
いや、否定はしていない。否定しているのは、これらの発言や段階や状態を作り出す、機械的で意図的でシステマチックに、営業という一種のコミュニケーションを行っている人間を否定していた。これらの発言、段階、状態は皆本来まるで空っぽの何もない空間からふと、感じるものであり、それを相手に伝えるモノなのだということを説いてくれていた。本来コミュニケーションは作るものではない、生まれてくるものなのだということを。
だから「ナンパは会話の状態でしかない」。コミュニケーションの一つとしての「ナンパ」なのだ。
システマチックなコミュニケーションは常に結果にコミットしている。例えば営業コミュニケーションでいうならば、契約をするという結果がある。その結果を出すことだけに則り、コミュニケーションを故意に「作り上げていく」。
契約を取るために契約という結果から逆算をし、はじめに何をするか、なにを用意して何を口にするかを考える。
「今なにしているの?と聞いたら返ってくる答えは限られている。買い物、待ち合わせ、帰るところ、飲みに行くところ、仕事中。これら全てに対する切り返しを用意しておけば…」
こんなような思考やりとり考察が営業のコミュニケーションで、システマチックな部分である。これらを忠実に再現するのだ。実際の女の子とのコミュニケーションで。
私はこれを高く評価していた。これこそが私のあるべき姿なのだと、だから私はこんな機械的な存在になろうと自らの将来を強く望んでいた。習得した技術に関しては恐らくはまだ全体の1割も満ちていない。実績もまだ初めの一歩を踏み出すことができただけだった。だから今の私はまだ習得しきれていない営業技術をいち早く習得し、さらにより多くの契約数を重ねていくことを望んでいて、実行していた。必要あらば自己投資として講習に行ったり情報教材を買ったり…色々な覚悟もしたりしていた。何故こんなにも切羽詰まるようにシステマチックなコミュニケーションを切望していたのか私はわからなかった。そのわからない何かが私にそれ生み出していたのだろう。
この本の文を読んでいくたびに、そして引き込まれるたびに、私は私の踏み入れている現状と来るべく将来を否定されていく。もちろん全部が全部私を否定するモノではないのだが、それは肯定ではない。この本は
否定、否定、休んで、否定、否定…
というように私を休めては否定、気持ちをそらしては深い所へと、どんどんどんどん誘導していくのだ。私の状況を鑑みるに、これは悪魔の催眠書だ、そう人は言わざるを得ないかもしれない。
だが私は必死に堪えるかのようにこの本を読んでいた。もちろん読むスピードは尋常じゃなく遅く、集中は何度も切れる。内容ではなくページ数や経過時間、周りの騒音、私の身体状態などなどが気になってしまう。だけれども読んでみ続ける。集中が切れて読み飛ばしてしまったところ、あれ?おかしいな?どういう意味だろう?と疑問に思ったところを何度も文頭に戻ったり文節に戻って読み返したりしながら、所々本をたたみ、目を閉じて気持ちを空にしてから読むようにしながら、この本のページをめくっていった。(ただ単純に読むのが下手くそなだけなのかもしれない、本読まないから)
そして私への否定が私の中へとスルスルと入り込んでいく。滑らかにゆっくり優しく温かく、私を否定していく。決して抵抗はできない。私は否定を否定することができなかった。だからその私を否定する文章の部分だけは戻って読み返すこともなく、一回読むだけでスラスラと理解することができていた。
否定は悪魔のそれなのだろうか?いや私は違うと思った。これが悪魔であるのならば天使である私自身の否定でこの本の否定を投げ捨ててしまえばいい。それが出来なかったからだ。
「システマチックなナンパ」を極めて契約の数をこなそうとしていた私の否定。では、悪魔から否定をされている訳ではないとしたら、私は誰から否定されているのだろうか?
それはなんなのか、この本にある通りに私はその疑問を紐解いていた。
感じるだけ。流れに身を任せ、無理に言語的に捉えようとするのではなくイメージとして、ただ故意にそのイメージに固執するのではなく、湧き出るその感覚を観察する。漠然とした非言語を記号や言葉に表すのではなく頭に感じ取るだけでいい。そうしていることでふと、具体的な記号や言葉に表すことの出来る答えが現れるのだという。何かを道具や人の意見を聞いたり使ったりして無理やり解決するのではない。ただ、待つのだ。感じながら待ち、浮かんでくるまで待つ。待ちながら自分の体の筋肉の緊張や状態、感情の変化の移り変わりを味わうのだ。
そうして解答が得られる。
この否定はどうやら私自身からによるもののようだった。この本は、「システマチックなナンパ」を極めて契約の数をこなそうとしていた私が、無理やり脳のシワの溝の奥に埋められながらもひっそりと地底で「それを否定していた私」の人格を再び掘り起こし肯定するためのものであったのだった。私は気がついていたのだ。この営業界隈で主流となっている用意されたシステマチックなコミュニケーションは間違ったものなのだということに。
見て見ぬ振りをしていた私の存在をこの本は気づかせてくれたのだった。
でもやはり改めてそれに気づかされるのは辛いことであった。ただ機械的な存在になることは間違いないと信じたかったのだと思う。何故そう信じたかったのだろう。今も別に己を機械にしてコミュニケーションをシステマチックにすることは決して間違っている事だとは思わない。だが自分は違ったのだ。何故違っていたのにこのコミュニケーションが間違いないんだと信じたかったのだろう。
本を読みながら頭の中を空にしていく。脳外の感覚、空間を味わっていき、新しい自己の「トランス」へと入っていく。
ふと浮かび上がるものがあった。
恐怖、裏切り、信頼、浮気、詐欺、憎悪、優しさ、復讐、そして私自身の姿と求めていた何か。言葉ではなくイメージとして。私の過去のイメージをフラッシュバックするようにしながら、それらは浮かび上がってきた。それらが自然と勝手に組み立てられていきながら、私に2つの解を提示してくれた。
怖かったのだろう。
自分と向き合うことが。
恐れていたのだろう。
人を見るということが。
私は本書を読むことで読む前に本書に抱いていた暗くて白い感覚の正体がわかり、読んでいる最中に露わになっていたその感覚は、読み終わった時にはすっかり抜け落ちてしまっていた。私は今まで知り得なかった、明瞭で透明な感覚を体に脳に、そしてその私を囲い纏うその空間にさえも染み込ませるように味わっていた。
Check。
私が目指していた営業は間違いということを教えてくれた。間違い…というよりは危険を孕んだコミュニケーションだということが書いてあった。私はそのことに気がつけて嬉しいような、悲しいような、複雑な気持ちだが、その複雑な気持ちは決して悪い気持ちではないと思う。
この本を後半部分を読んで知り得、感じたことをこの本の言葉ではなく、自分の言葉でまとめてみようと思う。
人は脳内の思考とそれより外側の臓器、筋肉、組織、皮膚等の自己形成物、大気、圧力、触れている物、におう物、視界に入る物、聞こえる物、目の前の人、その他大勢の他人等の自己の空間物を通じた現象
を交互に変えるように認識しながら生きている。これを謂わば、「変性意識状態」所謂、トランスである。という認識を持っていた。
…
のだが、ちがった。
トランスとは自分の体を含めた自分と、それ以外(≒相手)の同時認識のことであった。同調をしていくことで相手の中身を感じ取る。感じ取るというのがポイントである。
本書の言葉を借りるのなら、私はよく自分の殻にこもることが多い。自分と自分の身体だけの相互認識という今までの私がトランスの誤認識をしていたように私は全ての事象…コミュニケーションについて自己完結していた。営業考察、批判ツイート、日々の日常と勘違いしていたトランス。これらは全て脳内のみでで行われるものでありただの独り言にすぎない。どれだけ完璧で理想的な考察で、頭の中にフローチャートがあったとしても、体がいうことを聞かなかった。声をかける時、変えた後、ガン鹿を受けた後、打診をする時、それを拒まれた後、ギラをする時、グダられた時。私はそういう時にすぐに頭が真っ白になっていた。
ただ相手を見ていないでコミュニケーションをとっていたからであった。
私がコミュニケーションを行い他人と触れ合い意思疎通することのできる生命体であるということに今さらながらに気づかされた。また同時に、正しいコミュニケーションを取らねばならないということも知り得た。
この本に答えがあるとすればこうである。
この本の趣旨はなんと三行でまとめられる。
そんな脅迫概念に縛られていないで
人間らしく
コミュニケーションを楽しめよ。
ということだ。
Action。
この本を読んで私はこのような選択をしようと決断した。
「システマチックな会話を極めていく」
と。と同時に
「トランスを用いたコミュニケーション」
も極めて、
『私の営業法マニュアル』
を作り上げていこうと決意した。
コミュニケーションの全貌、本質を知った上でまず、会話理論や技術を習得し続けていく。この本で散々否定されたシステマチックを継続して磨いていくということだ。
この本を読んだのなら、もうそんな馬鹿らしいことをするなと思われるかもしれない。本を読んだ意味がないじゃないかと言われるかもしれない。
そうかもしれないしそれは一理はあるのだが、この本を読んだ上で私はシステマチックなコミュニケーションを続けていくことを決意した。システマチックというものが何故この世に存在しているのか。それはそれに有用性があるからだ。何も知らない、それに関しては特別不得意な人間にそれを伝えなければならない場合、用意されたシステムというのは大変効率が良く身につかせることができる。これは人にものを教える技術の結晶である。詰まる所、教授論という観点からシステマチックを磨いていく必要があるのではないかと私は感じた。
私は世界を外道から変えるという目標を立てた。このシステマチックがもつ教授論はきっとその目標を果たすために必要になってくる技術なのではないだろうか。さらにシステマチックを極めた先に何かがあるのは私の目指していた場所の先輩方がすでに実証済みだ。何か別の大切なものが新たに芽生えることももしかしたらあるのではないかと、私は考えている。
システマチックなコミュニケーションは磨いてはいくのだが、今後はトランスを用いたコミュニケーションも同時に身につけていく。むしろ主軸として扱っていきたい。コミュニケーションを楽しむために、勿論契約は沢山行っていくけれど、それは「コミュニケーションの延長上に契約がある」ということを常に念頭に置いておく。これは以前講習を受けた時に教わった言葉だ。大切なことを私は忘れてしまっていた。
私は声をかけたその瞬間でラポールを築きあげ、自由に言葉を話し女性を魅了し、気儘に契約をする営業師となっているだろう。
まずはこの本に書いてある自分を観察し、相手を感じ取り認識する能力、同調、内省、観察眼、依存のシステム、そしてトランスと聞く技術を身につける必要があるだろう。自分の観察と相手を感じ取る方法は詳しく詳細に書かれている読み返して理解してこの本だけを使ってマスターすることはできるだろう。もう苦痛はない。二週目以降の読書は気軽にできるはずだ。必要があらば参考文献を書店で探して読んでみることにする。既にめぼしい本が幾つかある。
注意点としては、著者の高石氏を理解しようとしないことだ。リスペクトするのは一向に構わないが、氏になろうだとか氏にあいたいと思い例えば気功ワークスに参加しまくる…なんてことは、多分ないだろうがやめよう。結局はこのトランスというのも技術なのであって、技術習得以外のことに熱中没頭してしまうのは本末転倒だからだ。でも一度お会いしてみたいとは思う。カウンセリングは確か…申し込みをし、15000円を握りしめ3時間ほどの空き時間を作り渋谷のドトールに行くことができれば…受けられる…のだった気がする。悩みがあったら是非利用しようとか色々考えたのだけれど悩みは自分で悩んで葛藤して答えを出したい派なので、行ったとしてもカウンセリングというよりはAKBの握手会みたく、お金握りしめて憧れの人に会いに来ました!のような感覚なのだと思う。因みにAKBは10秒で1000円とかだった気がする。それに比べたら安いですぜ。フハハ。そんな心持ちでいたら笑顔に殺されるかもしれないなフハハ。
冗談が始まってしまうくらいに集中力が途絶えてしまったから、初めての書評はこの辺で締めということにしておく。
システマチックなコミュニケーションとトランス的コミュニケーション。両視点から物事を捉えることができればそれはまた新しい、いや私オリジナルの何かをこの世界に生み出すことができるかもしれない。そう信じて私はこの歪で曖昧な社会を歩んでいき、世界を変える。その新しい歩みの一歩の方向を定めてくれたこの本、そしてこの著者、高石宏輔氏に大変感謝している。
更には書評も嫌いである。人が書いた書評はすきだ。その本を読んだ気になるのは得意だからだ。だが自分が書くとなると少し違って、そもそも読むのが好きではないのと、読者感想文とか小学校の頃から大嫌いな宿題の一つだった私。昔の私は考えたことを表現する事が苦手だった。
だけれど本を読むということは自分にとって何か良いきっかけを作り出すものだったり、悩みの解決となったり、知識理解をより深めるものだったり、良いことは勿論ある。そして何故こうなったのかは知らないが私は子供の頃と比較すると一人で物事を考察し、文章や言葉、絵など色々な表現方法を持ってそれを露わにすることが多くなった。多くなったというよりは、(何故だか本当にわからないが)好きになったのだ。
だから今後、営業関連の本があり、読む機会が訪れたのなら積極的に考察していく。そしてこの「書評」にもPDCAサイクルを組み込むことにする。何故書評にサイクルを組み込むのかというと、考察し表現することは好きなのだが、私の場合、表現したいこと言いたいこと伝えたいことが文頭からいっぺんに出てきてしまって何が書いてあるか全くわからない文章になってしまうからだ。だからある程度方向性をもたせて書評を書いていきたい。本を読む前の私と読んだ後の私の考えを比較し今後どうしていくべきか、どうあるべきかを考察し、導いていこうと思う。
各段階をこのように設定しておく。
Plan→Pretext。(口実)(何故その本を手に取ったのか。手に取った背景はなにか。読む前に欲している物は何か。その本を読む前のイメージはなにか。この本を読んでどうなりたいか、何を期待しているか。)
Do→Read。(読書)(内容。Readした物。読んでいる自分の様子。)
Check。(感想と考察)(読み終わった後の感情、印象を読む前と比較。何が変わってどうしようと思ったか。Readした部分の自分なりの考え、感想、考察。)
Action。(方針)(今後自分はどうあるべきか、どうすべきか。この本は活かせるか。活かせるとしたら何に活かすか。)
他にいい英語があるかもしれない。学がない私で英語文学を作り上げた昔の人達には大変申し訳ないが、今回はPDCA、もといPRCAに無理やりはめ込んで書評していきます。
そしてもしも書評を見るためだけにこのサイトにこられた方用に注釈。このサイトでは
営業→「ナンパ」
契約→「エッチ」
としています。下らないブログ設定につきご了承下のうえ、お付き合い頂けると幸いです。
Pretext。
高石氏。瞬間でラポールを築くと言われる営業界ではカリスマ的存在。ラポールというのは簡単に言えば人との仲、信頼関係のことで、まるで予知能力者のようにその人物の心の中を見抜き、心を開かせることができる人物である(らしい)。ラポールと身体知という氏のブログは、私がネットで営業のために有効な情報を読みあさっていた時期にに出会った、所謂凄腕の方の「ナンパブログ」であった。
氏の「ナンパブログ」は他の方のそれとは少し違っていた。というか異質に感じた。何が違うのか。そこで異質に感じる物とは、氏のサイトの中の「ナンパマニュアル」なる物の中にある。営業全体を通して、女性を我がものにするまでのフローチャートだったり、ポイントやコツ、テクニックを箇条書きなりなんなりにまとめたりしたものが本来「ナンパマニュアル」と呼ばれるものであるが、このサイトにあるマニュアルは他のサイトのそれとはまるで異なっていたのだった。
このマニュアルは営業において知らない人に声をかけるその行為を躊躇って足がすくんでしまう、いわば地蔵のことについてきめ細かに丁寧に書かれており、オープン時の自分の緊張や会話での不自然さ、それらの状況に入り込んだ時の心構えや心のあり方を中心に他にも…いや、「地蔵をやっとこさ克服し、声をかけて会話を始める」までのみ、ただそれだけを詳細に書き綴ったものなのだ。
営業というのは声をかけ、契約を結ぶまでが一連の流れである。だがこのマニュアルには、そこから話し始めてから何を話すのか、具体例もなにも書かれていない。恋愛トークやセクシャルな話題の持っていき方についても書かれていない。より効果的なボディタッチの仕方なんて書いていない(むしろ営業師の軽率なボディタッチを批判している)。即までの持っていき方の流れなんて書いてない。服装、髪の毛の盛り方なんて書いていない。コールドリーディング、ミラーリングの意図的なやり方なんて書いていない。このマニュアルを全て読み終えた時、「ここで終わり?!」と、あっけにとられた私はこれは本当にマニュアルなのかとサイト内をあっちにいったりこっちにいったりしたものだった。
地蔵はそこそこに克服していたであろう私はそんな事は求めてなんかいなかった。唯一このマニュアル書かれているあるテクニックといえば「トランス」というもの。私はその唯一である「トランス」に、まるで縛られたかのように、相手をトランスにする方法、そこから打診、ギラをつく方法…を自分なりに必死に考察して実践をしていった。上手く行ったり行かなかったり、釈然とはしなかった。原因を追究していくと、相手のトランスを導きやすくするためにはまず自分がトランスに入る必要がある、というのを知り、原因はそれだと思い込んだ。それからは自分をトランスに入れ込む練習を始める事となった。だが何故自分がトランスにならなければならないのか、自分がトランスに入る事で営業にどう影響が出るのか、ちっとも全く分かってはいなかった。
「ナンパは会話の状態でしかない」
そんな哲学のような難解なテーマ沿うかのように高石氏のマニュアルは語っている。私はその本質を全く理解せず、常に釈然としない状態であった。だが、このマニュアルは営業の本質的なことが書かれているのは間違いないと確信が何故かあって、気付いてたら事あるごとにマニュアルを何度も何度も読み直していた。女性に声をかけ、考察をするとき、常にこのマニュアルの視点からの考えを必ず入れるようにしていた。
このマニュアルを頭の片隅に常駐させていたためか、高石氏のことは自分の中でかなり気になる存在になっていた。無論会ったことはない。どんな人なのだろうと一度グーグルで検索をし、YouTubeやニコニコ動画でその高石氏の姿、声を聞いたことがあった。第一印象としてこの人根暗か?と思ってしまった。ボソボソした声は、この人本当に「カリスマナンパ師」なのかと大変失礼なことを思ったりもしてしまった。しかしそんな第一印象を跳ね除ける強い第二印象があった。喋り方と話しの内容だ。「愛のキャラバン」の動画で見て聞くことができる。公家シンジ氏、宮台真司氏、その他ゲストの方々とのトークで高石氏は、とても柔らかい喋り方で、しかし、(特に公家シンジ氏に)相手の意見の核心を細いナイフで突き刺していくかのような形相で会話をしていた。会話がそのような形相なだけで高石氏の見た目とのギャップがあり、とても印象的だった。初めてその動画を見た時はあまりのSさに、この人と話してたら私は赤子に戻った時のように泣き出すな、そう感じた。根暗なんていってごめんなさい、いじめないでください、と会ってすらないのにそう念じていた。実際は繊細で感性の高い人柄らしいのだがこの時ばかりは笑顔の殺人鬼とかまぁ色々と良からぬイメージを持っていたりしていたのだった。
この時、サイト内の「ナンパマニュアル」に書かれていたことを思い出す。あぁ、これが営業師のする「コンプレックスを突き刺すような会話」なのだと。私もやってみようと思い町に繰り出したが、嫌な顔をされガンシカをされたり、はたまた初即ができたり。効果があったのか否か、そしてどうして効果があったのかなかったのか。やはり氏の語るマニュアルの本質を理解できずにいた。
そんな「ナンパマニュアル」を書いていた高石氏が本を出すと聞いて私は驚いていた。何が書いてあるのだろう。営業テクニック?催眠?心構え?自己啓発?
この本を推奨する宮台真司氏のコメントはこうある。「本書は悩む人のために書かれたマニュアルではない。むしろ悩まずにいきている人の歪みに焦点が当てられている。」
それを見て私は得体の知れない暗くて白い何かが心に浮かぶのを感じていた。それが何なのかよくはわからなかった。テクニックでもないがテクニックでもある、催眠をかけられるようで目が覚める、心構えであるが実はそうではない、自己啓発ではなく自己見つめる何か…という矛盾した感覚をこの本の紹介から自然と感じられたのだった。
その矛盾は苦痛なのか喜びなのか、まだ読んでいないからわからない。ならば読まなくてはいけない、と私の知識欲と好奇心の裏に隠された謎の使命感に脅迫されるかのようにこの本を購入するに至った。
Read。
新宿のとある書店にて購入。
スタバにて、いざ本書を読む。
序章。初めて知る高石氏の日常風景や感じ取っている世界が描写されていた。ああなる程と。この人はこういう感じの人だったな。そう感じた。そして共感を持った。私は今自己トランスを習得しようとしていた。だからその私の最近感じている世界と、氏の世界はきっと同じなんだとそう感じた。まだまだではあるが繰り返していけばきっと氏のようなもっと鮮明な世界が見えてくる、とそう感じた。だからこのプロローグは私の中で上手いこと噛み合い情景を思い浮かぶに至った。
(なんだか読みやすそうな、面白そうな本だな。楽しみだな)
そう思った。
本は嫌いではあるのだが、私は集中しだすと時間なんて気にせずに一気に本を読んでしまう。まだ序章であるが、きっとこの本もこのスタバで読み終え、帰りの電車の中ではツイッターにて書評をサクッと書くことができるな、とそう感じた。
目次を読む。
前半は心構え的な何か?
何やら後半の部分は…おおっ?
まさかのテクニックが書かれているようだ。
(思ってたより実践的な営業マニュアルじゃないのこれ)
そう思った。
まるで山の麓までピクニックに行くかのような、そんな軽やかな予感がした。そしてそんな緩やかな地形の行く先には私の求める神秘の道具が眠っていて、その場所へなんの苦もなくたどり着くと、私はいとも容易く神秘の道具である「テクニック」を手にすることができる。そして明日以降、その1700円と税込みの安安で手に入った高級な道具を携えストリートへと身を投じていくのだろう。
ふと、不信感が浮上した。この本の表紙を見て感じ取った暗く白い感情が湧き上がる。果たして本当にそんな本なのか?そんな楽しい安安とした安易な喜ばしいテクニカル本なのか?
私はその不信感とやらを無理やり脳のシワの溝の果てへと押し込むように埋め、組織液で蓋をした。私の営業人生に置いてプラスとなりうるもの、そう期待して、いやなるだろうと予期して一章へと目を進めていく…
そして私は
共感、トランス、世界、情景、集中、期待、予期、そして、思い「込み」を一章から全て否定され、心心共々打ち砕かれることとなる。
この本を読んだ人の感想をツイッター上で見かける。
「温かい気持ちになる」
「気持ちがゆったりする」
「柔らかい感じがする」
私はそうはならなかった。
緊張しっぱなしだった。
私の心は常に緊張しっぱなしだった。
まず私はこの本をイッキヨミするに至らなかったのだ。集中して本に向かうことができない。読了時間は約12時間、三日間に分けて読んだ。ここまで読書に時間がかかる大人がいるか?少なくともこの本を読む層の中にいやしないだろう。
スラスラ読めないと言うことは…そう、この本の内容とは私現在と、目指すべく未来を真っ向から否定する存在、私にとっての苦痛そのものであったのだ。
苦痛である理由を挙げていこう。
この本にはまず、催眠術式が組み込まれている。ページを開いたらバタンキューお亡くなり…みたいな忍者アクションや魔法少女物語のそれではなく、読んでいくといつの間にかうっかりかかってしまっていたという類のそれだ。
この本自体が催眠術を応用して出来ていかのように感じた。いや、高石氏がカウンセラーだから自然とそのような文章構成になるのだろうか?もしかしたらこの本が高石氏の体験に基づくものであるからなのだろうか?それともこの系統の本はこういう文体になるのか?私はあまり本を読まないから実際のところはどうなのかわからないが、読んでいくたびにまるでそこにある言葉とともに体や気持ちの変化が進行していくような、もしかしたら誘導されているような…この本はそんな文体だった。以下の斜体は本書の引用文である。
____そうすると、自分の気持ちがわからなくなる。そして、他人の気持ちも想像できなくなる。ただ、他人に悪く思われていないか、何の手がかりもなく怯えるだけになる。怯えて、安全を確保しようと、自分の気持ちもわからないまま、表面上だけうまくいっているように見えるコミュニケーションの手段を身につけようとしてしまう。それでは自分の気持ちと振る舞いがちぐはぐになって、一向に振る舞いが改善されないどころか、ますます酷くなっていく。(p10)
このように、次に読み手が湧き出る感情や出来事はあらかじめ決められたものであるかのような、まさか誘導されたかのような、そしてもう既に読み手の状況や感情を予測している文の構成となっている。催眠術をかけたり、かけられたりしたことのある人はこの文章をゆっくり声に出して読んでいくと、まるで深いトランスにへと読者を誘導しているような語りに見えないだろうか?
或いは、これはただ高石氏の体験をただ書き綴ったものであり我々が同調して勝手にのめり込んでいるだけなのだろうか?読解力が低い私の思い違いかもしれない。
ともあれ、読者はきっとこうなっているであろう、またはこうであるべきであるという結果と事実を書き記し、もしそれになっていないのならばそこに向けたまた別の誘導を、そして結果が曖昧なものに関しては矛盾点もあるのだということも指摘するような文を織り交ぜながら構成している様は私はまるで催眠術のようだなと感じたのであった。
だが催眠術というのは普段我慢していることや、することが出来るものをあえてさせるためのものであって、受け入れがたいものを受け入れさせる、行わせるといったことはまずない。同人誌でよく見かける、「キモオタが嫌がる美少女を催眠して契約をする」という図は妄想でしかないのだ。
その図が私にも当てはまったのだ。
催眠術式を組み込まれたこの本は確かに私の体の緊張を溶かしていく。体は休まり後は私の意思思考という中心部分だけ。だがその緊張が溶け切った私に、私の考えと異なるもの、中心部を目指し「否定」という形で流れ込んでくる。PUAメソッドの会話ルーティーン、カウンセリングの相槌テクニック、恋愛工学のNLPに問いかける非言語的テクニック、催眠術や人を依存をさせる方法など…私が身につけたもの、またこれから身につける予定のこれらのテクニック…の否定がこの本にあった。
いや、否定はしていない。否定しているのは、これらの発言や段階や状態を作り出す、機械的で意図的でシステマチックに、営業という一種のコミュニケーションを行っている人間を否定していた。これらの発言、段階、状態は皆本来まるで空っぽの何もない空間からふと、感じるものであり、それを相手に伝えるモノなのだということを説いてくれていた。本来コミュニケーションは作るものではない、生まれてくるものなのだということを。
だから「ナンパは会話の状態でしかない」。コミュニケーションの一つとしての「ナンパ」なのだ。
システマチックなコミュニケーションは常に結果にコミットしている。例えば営業コミュニケーションでいうならば、契約をするという結果がある。その結果を出すことだけに則り、コミュニケーションを故意に「作り上げていく」。
契約を取るために契約という結果から逆算をし、はじめに何をするか、なにを用意して何を口にするかを考える。
「今なにしているの?と聞いたら返ってくる答えは限られている。買い物、待ち合わせ、帰るところ、飲みに行くところ、仕事中。これら全てに対する切り返しを用意しておけば…」
こんなような思考やりとり考察が営業のコミュニケーションで、システマチックな部分である。これらを忠実に再現するのだ。実際の女の子とのコミュニケーションで。
私はこれを高く評価していた。これこそが私のあるべき姿なのだと、だから私はこんな機械的な存在になろうと自らの将来を強く望んでいた。習得した技術に関しては恐らくはまだ全体の1割も満ちていない。実績もまだ初めの一歩を踏み出すことができただけだった。だから今の私はまだ習得しきれていない営業技術をいち早く習得し、さらにより多くの契約数を重ねていくことを望んでいて、実行していた。必要あらば自己投資として講習に行ったり情報教材を買ったり…色々な覚悟もしたりしていた。何故こんなにも切羽詰まるようにシステマチックなコミュニケーションを切望していたのか私はわからなかった。そのわからない何かが私にそれ生み出していたのだろう。
この本の文を読んでいくたびに、そして引き込まれるたびに、私は私の踏み入れている現状と来るべく将来を否定されていく。もちろん全部が全部私を否定するモノではないのだが、それは肯定ではない。この本は
否定、否定、休んで、否定、否定…
というように私を休めては否定、気持ちをそらしては深い所へと、どんどんどんどん誘導していくのだ。私の状況を鑑みるに、これは悪魔の催眠書だ、そう人は言わざるを得ないかもしれない。
だが私は必死に堪えるかのようにこの本を読んでいた。もちろん読むスピードは尋常じゃなく遅く、集中は何度も切れる。内容ではなくページ数や経過時間、周りの騒音、私の身体状態などなどが気になってしまう。だけれども読んでみ続ける。集中が切れて読み飛ばしてしまったところ、あれ?おかしいな?どういう意味だろう?と疑問に思ったところを何度も文頭に戻ったり文節に戻って読み返したりしながら、所々本をたたみ、目を閉じて気持ちを空にしてから読むようにしながら、この本のページをめくっていった。(ただ単純に読むのが下手くそなだけなのかもしれない、本読まないから)
そして私への否定が私の中へとスルスルと入り込んでいく。滑らかにゆっくり優しく温かく、私を否定していく。決して抵抗はできない。私は否定を否定することができなかった。だからその私を否定する文章の部分だけは戻って読み返すこともなく、一回読むだけでスラスラと理解することができていた。
否定は悪魔のそれなのだろうか?いや私は違うと思った。これが悪魔であるのならば天使である私自身の否定でこの本の否定を投げ捨ててしまえばいい。それが出来なかったからだ。
「システマチックなナンパ」を極めて契約の数をこなそうとしていた私の否定。では、悪魔から否定をされている訳ではないとしたら、私は誰から否定されているのだろうか?
それはなんなのか、この本にある通りに私はその疑問を紐解いていた。
感じるだけ。流れに身を任せ、無理に言語的に捉えようとするのではなくイメージとして、ただ故意にそのイメージに固執するのではなく、湧き出るその感覚を観察する。漠然とした非言語を記号や言葉に表すのではなく頭に感じ取るだけでいい。そうしていることでふと、具体的な記号や言葉に表すことの出来る答えが現れるのだという。何かを道具や人の意見を聞いたり使ったりして無理やり解決するのではない。ただ、待つのだ。感じながら待ち、浮かんでくるまで待つ。待ちながら自分の体の筋肉の緊張や状態、感情の変化の移り変わりを味わうのだ。
そうして解答が得られる。
この否定はどうやら私自身からによるもののようだった。この本は、「システマチックなナンパ」を極めて契約の数をこなそうとしていた私が、無理やり脳のシワの溝の奥に埋められながらもひっそりと地底で「それを否定していた私」の人格を再び掘り起こし肯定するためのものであったのだった。私は気がついていたのだ。この営業界隈で主流となっている用意されたシステマチックなコミュニケーションは間違ったものなのだということに。
見て見ぬ振りをしていた私の存在をこの本は気づかせてくれたのだった。
でもやはり改めてそれに気づかされるのは辛いことであった。ただ機械的な存在になることは間違いないと信じたかったのだと思う。何故そう信じたかったのだろう。今も別に己を機械にしてコミュニケーションをシステマチックにすることは決して間違っている事だとは思わない。だが自分は違ったのだ。何故違っていたのにこのコミュニケーションが間違いないんだと信じたかったのだろう。
本を読みながら頭の中を空にしていく。脳外の感覚、空間を味わっていき、新しい自己の「トランス」へと入っていく。
ふと浮かび上がるものがあった。
恐怖、裏切り、信頼、浮気、詐欺、憎悪、優しさ、復讐、そして私自身の姿と求めていた何か。言葉ではなくイメージとして。私の過去のイメージをフラッシュバックするようにしながら、それらは浮かび上がってきた。それらが自然と勝手に組み立てられていきながら、私に2つの解を提示してくれた。
怖かったのだろう。
自分と向き合うことが。
恐れていたのだろう。
人を見るということが。
私は本書を読むことで読む前に本書に抱いていた暗くて白い感覚の正体がわかり、読んでいる最中に露わになっていたその感覚は、読み終わった時にはすっかり抜け落ちてしまっていた。私は今まで知り得なかった、明瞭で透明な感覚を体に脳に、そしてその私を囲い纏うその空間にさえも染み込ませるように味わっていた。
Check。
私が目指していた営業は間違いということを教えてくれた。間違い…というよりは危険を孕んだコミュニケーションだということが書いてあった。私はそのことに気がつけて嬉しいような、悲しいような、複雑な気持ちだが、その複雑な気持ちは決して悪い気持ちではないと思う。
この本を後半部分を読んで知り得、感じたことをこの本の言葉ではなく、自分の言葉でまとめてみようと思う。
人は脳内の思考とそれより外側の臓器、筋肉、組織、皮膚等の自己形成物、大気、圧力、触れている物、におう物、視界に入る物、聞こえる物、目の前の人、その他大勢の他人等の自己の空間物を通じた現象
を交互に変えるように認識しながら生きている。これを謂わば、「変性意識状態」所謂、トランスである。という認識を持っていた。
…
のだが、ちがった。
トランスとは自分の体を含めた自分と、それ以外(≒相手)の同時認識のことであった。同調をしていくことで相手の中身を感じ取る。感じ取るというのがポイントである。
本書の言葉を借りるのなら、私はよく自分の殻にこもることが多い。自分と自分の身体だけの相互認識という今までの私がトランスの誤認識をしていたように私は全ての事象…コミュニケーションについて自己完結していた。営業考察、批判ツイート、日々の日常と勘違いしていたトランス。これらは全て脳内のみでで行われるものでありただの独り言にすぎない。どれだけ完璧で理想的な考察で、頭の中にフローチャートがあったとしても、体がいうことを聞かなかった。声をかける時、変えた後、ガン鹿を受けた後、打診をする時、それを拒まれた後、ギラをする時、グダられた時。私はそういう時にすぐに頭が真っ白になっていた。
ただ相手を見ていないでコミュニケーションをとっていたからであった。
私がコミュニケーションを行い他人と触れ合い意思疎通することのできる生命体であるということに今さらながらに気づかされた。また同時に、正しいコミュニケーションを取らねばならないということも知り得た。
この本に答えがあるとすればこうである。
この本の趣旨はなんと三行でまとめられる。
そんな脅迫概念に縛られていないで
人間らしく
コミュニケーションを楽しめよ。
ということだ。
Action。
この本を読んで私はこのような選択をしようと決断した。
「システマチックな会話を極めていく」
と。と同時に
「トランスを用いたコミュニケーション」
も極めて、
『私の営業法マニュアル』
を作り上げていこうと決意した。
コミュニケーションの全貌、本質を知った上でまず、会話理論や技術を習得し続けていく。この本で散々否定されたシステマチックを継続して磨いていくということだ。
この本を読んだのなら、もうそんな馬鹿らしいことをするなと思われるかもしれない。本を読んだ意味がないじゃないかと言われるかもしれない。
そうかもしれないしそれは一理はあるのだが、この本を読んだ上で私はシステマチックなコミュニケーションを続けていくことを決意した。システマチックというものが何故この世に存在しているのか。それはそれに有用性があるからだ。何も知らない、それに関しては特別不得意な人間にそれを伝えなければならない場合、用意されたシステムというのは大変効率が良く身につかせることができる。これは人にものを教える技術の結晶である。詰まる所、教授論という観点からシステマチックを磨いていく必要があるのではないかと私は感じた。
私は世界を外道から変えるという目標を立てた。このシステマチックがもつ教授論はきっとその目標を果たすために必要になってくる技術なのではないだろうか。さらにシステマチックを極めた先に何かがあるのは私の目指していた場所の先輩方がすでに実証済みだ。何か別の大切なものが新たに芽生えることももしかしたらあるのではないかと、私は考えている。
システマチックなコミュニケーションは磨いてはいくのだが、今後はトランスを用いたコミュニケーションも同時に身につけていく。むしろ主軸として扱っていきたい。コミュニケーションを楽しむために、勿論契約は沢山行っていくけれど、それは「コミュニケーションの延長上に契約がある」ということを常に念頭に置いておく。これは以前講習を受けた時に教わった言葉だ。大切なことを私は忘れてしまっていた。
私は声をかけたその瞬間でラポールを築きあげ、自由に言葉を話し女性を魅了し、気儘に契約をする営業師となっているだろう。
まずはこの本に書いてある自分を観察し、相手を感じ取り認識する能力、同調、内省、観察眼、依存のシステム、そしてトランスと聞く技術を身につける必要があるだろう。自分の観察と相手を感じ取る方法は詳しく詳細に書かれている読み返して理解してこの本だけを使ってマスターすることはできるだろう。もう苦痛はない。二週目以降の読書は気軽にできるはずだ。必要があらば参考文献を書店で探して読んでみることにする。既にめぼしい本が幾つかある。
注意点としては、著者の高石氏を理解しようとしないことだ。リスペクトするのは一向に構わないが、氏になろうだとか氏にあいたいと思い例えば気功ワークスに参加しまくる…なんてことは、多分ないだろうがやめよう。結局はこのトランスというのも技術なのであって、技術習得以外のことに熱中没頭してしまうのは本末転倒だからだ。でも一度お会いしてみたいとは思う。カウンセリングは確か…申し込みをし、15000円を握りしめ3時間ほどの空き時間を作り渋谷のドトールに行くことができれば…受けられる…のだった気がする。悩みがあったら是非利用しようとか色々考えたのだけれど悩みは自分で悩んで葛藤して答えを出したい派なので、行ったとしてもカウンセリングというよりはAKBの握手会みたく、お金握りしめて憧れの人に会いに来ました!のような感覚なのだと思う。因みにAKBは10秒で1000円とかだった気がする。それに比べたら安いですぜ。フハハ。そんな心持ちでいたら笑顔に殺されるかもしれないなフハハ。
冗談が始まってしまうくらいに集中力が途絶えてしまったから、初めての書評はこの辺で締めということにしておく。
システマチックなコミュニケーションとトランス的コミュニケーション。両視点から物事を捉えることができればそれはまた新しい、いや私オリジナルの何かをこの世界に生み出すことができるかもしれない。そう信じて私はこの歪で曖昧な社会を歩んでいき、世界を変える。その新しい歩みの一歩の方向を定めてくれたこの本、そしてこの著者、高石宏輔氏に大変感謝している。