自ら他より己を知る
- 2015/06/15
- 19:14
外道。社会のレールから外れている世界。一般的、普遍的、全体的に見て異なる世界。
そこに身を置いたから、私の行動や考えを周りの人から理解されないことが増えてきていると思っていた。
親友から家族、仕事先の人達、同僚、先輩、顧客、そして営業した女性たち。外道にいきていること、営業していることを全て伝えることはできないがせめてその心情だけでもと自分の言葉で伝えることがあったがまるで私を淘汰するかのように理解されない。仕方のないし当然といえば当然の結果だが元々自己承認欲の塊の私故、これは苦痛でしかない事実であった。
が、外道に生きる人達なら私を理解してくれるだろう、と思っていたがそれは違くて、気さくに話しかけてきてくれるヤリチンのバーのマスターには現在私が行っている行動や思想思考を話すと「君の人生にあれこれいうことはしませんが、私は理解出来ない、それって意味のないことじゃないの?」と言われる。私はトランスに入りその意見をただただ受け入れながら聞いていた。家に帰り、言われた内容を振り返ってみると、自己や他人に向かう嫌悪や怒りで頭の中が混沌としていく。それらの感情と事実を出来る限りなるべく、客観的に感じ取りながら答えを導いていく。
外道にいる私のことをどうせ一般人はわかってはくれないんだ…という被害妄想で自己中心的な現実では決してないということが、ここ最近顕著となった。これは外道云々ではなく、私自身の解決せねばならない人格の問題なのだということだ。
理解はされなかった。
悲しかった。
そう思っている自分の人格は確かに愚かであり、今私が解決せねばならない自身の問題なんだと知った。
理解をされる方法に相手の好きな言葉で伝えていくという物があるらしい。その人のその言葉の意味と私のその言葉の意味は違う物であったりするし、そもそもその人の言葉を私は知らなかったり、その単語が嫌いだったり、違うかなと思う事はあったのだが一理ある。きっとこれは私のたりない部分の一つなのだろう。是非とも取り入れていきたい。
だが、今は。いや、自己を実現するまでは。私の行動や思考を人にあれこれ言われようと、自己実現欲は大切にしたい。この自己実現をまずは現実の物として刻み込みたい。だからこの目標に対して誰かが何と言ってこようと、自分がどうなろうと、実現というゴールのその日まで只管に突き進む。
だから私は自己承認という欲求を心内にとどめておく。不可解な行動、意味不明な思考に同意を求めない。仮に理解をしているという人間が近づいてきたとしても私は同意を求めない。多分それはエホバか詐欺師。私は私、お前はお前。みんな違ってみんないい。清々しいじゃあないか。とどめておく事で、原動力が生まれてくると思う。だから人からの批判をトランスで取り入れて反抗したいという激しい感情を自己実現へのエネルギーとして変換していく。
そうやって生きていこう。
自己承認欲。
なんだかこの欲求が急に馬鹿らしく感じた。目標の足枷にしかならないし、それよりも人との違いを感じることが楽しいなと思えるようになった。得るものがあると感じた。人との違いから私という人間を知ることができるように感じた。イチ営業師として。
普通は高校生や大学生初期で卒業する筈の欲求だが。まぁ仕方ない。