宗教と洗脳と催眠に抱く恐怖心
- 2015/06/17
- 04:45
タイトルがやばい。そう感じてくれたと思う。あなたはこの記事が怪しいと思ってるだろう。
何故わかったの?だって?それは私が営業師だからだ。
…
私たちが日本人をやっているからかはわからないけれど実際宗教って怖いイメージがある。外国ではイスラム国だとか、無宗教国家と言える日本でもオウムだとか、創価学会だとか。催眠術を使われ洗脳され、信者は教祖の操り人形になってしまう。操り人形にされてしまった信者は怖いこと、恐ろしいこと、汚いことを平気でやれるようになってしまう。
殺人、テロ、強姦。自殺、布教、不貞。
とても怖い。
宗教の何が怖いのかって、恐らく洗脳にあると思う。
洗脳とはなんだろう?
洗う脳みそ。
と言うことは脳みそを綺麗にされてしまうということだろうか。
何だかそんなに悪い意味ではなさそうな気がするのだが…
意味を調べたら第二次世界大戦に出来たわりかし若めな言葉らしい。
人の考えの根本を覆す事。それが意味らしいが…
確かに見解の相違で喧嘩する事はあるけれど、
新しい知見を知ったりするのは普段身近にあり得る事では?
そんなに恐怖するものの事でもない気がする。
怖いのは洗脳をさせるための手段である催眠術だろうか?
催眠術ってなんだろう?
催す眠りの術。
眠り、最近よく口にするトランスに導く方法ということだろう。
催眠術は医療の現場で使われている。その場合催眠療法と名前が変わるが。
自分自身にかける催眠術もある。読んで字のごとく自己催眠。
確かに眠ってる時にイタズラされるのは嫌な事だけれど…
別に眠ってる時に額に肉ってマジックで書く奴が悪いのであって、
これら自体は悪いことではない。むしろいいことに使われていたりする。
怖いのは洗脳でも催眠術でもなさそうだ。
では何故我々はこういった宗教、洗脳、催眠が怖いものと感じるのか。
これらの単語に共通する我々が恐怖してしまうものは何か。
それはきっと自分が自分で無くなってしまうという恐怖心だ。
自分の意図していないところで自分の不本意に自分を変えられてしまうのが怖いのだろう。
人は急激に変わることを恐れる。最近そんなようなことをよくテレビやネットで耳にする。全くもってそうだろう。変わることは怖いことなのだ。自分の存在の秩序を守ろうと生理的に働く。人は自分の存在を変えられてしまうものと出会う時対立をする。むかっとしたり、モヤっとしたり。それがそのまま口に出たり拳になったりもするだろう。この対立とは己の秩序を守るための生理的反射なのだ。
だから宗教!っときくと何だか体の臓器の奥底から感情が湧き出るようにそれを否定したくなる。洗脳、催眠と聞くと怪しいな、怖いなっていう暗いイメージが頭上をつきまとう。仕方ない。反射なのだから。だがそれは宗教洗脳催眠に対する恐怖の反射ではなく、自分が変わりたくないという生理的現象なのだ。
こういう人がいる。
私は宗教にははいってないし、洗脳もされたことはない、確固たる強い意思があるから催眠術にもかからない自信があるなどと主張してしまう人。ちょっとおかしい。実は人はなにかしら宗教に属していて、尚且つ洗脳もされていて、生きている限り常に催眠状態にかかっているのに。
人を殺してはダメです。
人を犯してはダメです。
人の物を取ったらダメです。
これはいわば宗教だ。はぁ?宗教ちゃうやろただの常識的な考え方やろと思うかもしれない。だがそれは事実だ。その常識的考え方が宗教だ。この殺犯盗の禁止は「日本社会」教という宗教の教えなのだ。信者の私が言っても説得力はないが素晴らしい教えだよね。
人を殺していい。
人を犯していい。
人の物を盗んでいい。
実際こういった教えをしている宗教はもちろんある。例えば常に紛争状態の国だとか。殺犯盗しなきゃ自分がやられる。だからせざるおえない。可哀想だとか、絶対やめたほうがいいと言うのはお門違いだという事だ。この宗教の人達も我々と同じように、はぁ?と我々のことを思うに違いない。
宗教というよりかは倫理観といった物の方がわかりやすいだろうか。
人によって倫理観がまるで違う。
宗教とは考え方や、信じているもの事。
宗教は絶対的なものと考えがちだけれど、国違えば、いや、国が同じでも県違えば、いや、県同じでもお隣さん同士で宗教は違うのは当然だ。だってあなたと一寸のズレもなく同じ生き方をした人は一人もいないのだから。このズレが宗教の違いを生み出す。まぁ、それでも。大まかな考え方というのは国ごとに統一されている。
日本社会教には性愛に関する教えがいくつかある。
「ナンパ」はいけないこと
何人との女の子と「エッチ」するのはいけないこと
浮気や不倫や寝取りはいけないこと
嘘を言ってはいけないこと
そんな洗脳を日本に生まれ住んだ者はいつの間にかされていた。営業契約は悪だということをだ。はぁ?当たり前やろと思うかもしれない。それはあなたが日本社会教の信者であり、日本社会教の宗教を深く硬く強く信条しているからだ。営業契約が悪であるという洗脳をこの日本社会でいつの間にかされていたからだ。(PUA教や恋愛工学教はこれと真逆のことを真と説いている。だが忘れてはならない。女の子に営業をかける前に、その子は日本社会教に洗脳されているという事実を。私の属する宗教では営業とはその事実を知った上でどうしていくかが大切であるという教えだ。声をかけたその瞬間から全ては信者の持つ倫理観に委ねられる。)
第二次世界大戦に作られたこの洗脳という言葉の意味とは少しニュアンスが違うとは思うが、洗脳とは宗教の教えを頭の中にインプットする事の意味も持っていると私は思っている。ということは洗脳には二つの段階があるように考えられるな。元ある意味である既存の宗教の考えをなくす事を洗脳(破壊)と呼び、新たな宗教の考えを植え付ける事を洗脳(創造)と呼ぶようにしよう。
宗教と洗脳とは我々の人格だとか倫理観を形成していくうえで大切なものといえそうだ。
また、人は常に催眠状態にあると私は思っている。
洗脳に忠実に行動を起こしている自分というのも催眠状態だし、異なる宗教に嫌悪感を示している状態もまた催眠状態の一つに過ぎない。エロ催眠で例えるなら、前者は何故か勝手に服を脱ぎだしている状況、後者は手で作った輪っかに指を出し入れされてオーガニズムを迎えている状態に近いだろうか。もっともこれらは催眠状態というよりかは催眠が完了した状態。適切な言葉がわからないから催眠(緊張)状態とでも名付けとくか。
眠っている状況、ふわふわしてる、暗示をかけられる状態にも人間は良くなっている。
例えば金曜会社終わりの電車の中。昼は会社の宗教に縛られている。ストレスだろう、だが夜になるとそれから解放された状態になる。はぁー疲れたぁ。といった何だか抜けたような感覚がある。それが催眠(緩和)状態に近いかなぁと思う。この時に何か暗示、例えば営業をかけられたら「ま、いっかな」とおもって契約してしまったりする。もしくは更に暗示をかけられて、この人と契約しまくりたいいいいい!とか、この人とずっと一緒にいたいいい!とかこの人のためならなんでもするううう!だとか。自分の宗教が書き換えられてしまうかもしれない。
そんな、いいいいいいいい!な感じになりたくないと思う人はいると思う。いいいいいい!なんて言ってる人はぶっちゃけきちがいにしか見えない。さっきも言った通り、人は変わりたくないという生理的現象がある。だが実は同時に変わりたいという欲求も兼ね備えている。あなたは永遠にずっとスーツで仕事をし続ける人間でありたいですか?やすみてえええええええ!って思う事があるだろう。変わりたい自分がいる。だから飲み会があるのだ。逆にあなたはずっと羽目を外しまくって遊び続けたいですか?世間の目いてえええええええ!って思いそろそろスーツ着て仕事しなきゃなって思うだろう。秩序を永遠に続ける事は実はできない。人は時として混沌を求め、そこに快楽を感じ得る。混沌は秩序状態にある人から見るぶんにはただの恐怖でしかない。だがその恐怖は快楽に変わる性質も同時に秘めている。
人は快楽を快楽を恐怖し、恐怖を快楽にできる生命体らしい。
Beforeとafterしか見ていないと宗教や洗脳、催眠を怖いものだと捉えやすい。
だってそれはやると思ってなかった人が笑いながら犯罪するような人に変わってしまったから。
だってそれは勤勉ガリ勉だった少年が金髪ホスト風な営業師に激変しているから。
だってそれは清楚なお嬢様がメンヘラビッチに変貌を遂げているから。
マイナスイメージは人の脳裏に思いっきり焼きつく。だから宗教洗脳催眠という言葉に自分はそうなりたくないなというものが入り込むんだ。だが、Beforeとafterの間にある過程を垣間見れば、これらをただ単純な恐怖のものだとは感じ得ないし、むしろ日常的に繰り返されている身近であり、自分にもあり得るであろう現象の一つに過ぎないものだと知ることができる。
宗教は考え方。
洗脳は破壊し創造させるもの。
催眠は緊張と緩和している状態。
世の中にある恐怖は日常を大げさにしただけだ。
信者という人たちは果たして宗教に洗脳され騙されているのだろうか?救いを求め、実際に救われている(と感じている)のだから騙されてはいないんだと思う。少なくとも信者らは騙されていることを知らない。それで幸せなのだから。だから信者の彼らに可哀想だとか、やめたほうがいいよと言うのは、「男の子がモテるには女の子に沢山貢ぐこと、優しくすること、寂しい時にいつも側にいてあげること」と我々PUAに言うことと同義だ。自分を否定されるということは対立せねばならないことなのだから。信者らをどうにかしてあげたいのなら催眠術を用いて新しく洗脳し直すしか術はないとおもう。洗脳をうけ、宗教が破壊された時、人は騙されていたと気がつく。
営業は悪だと言う。また、悪である事を認識しながら営業を行っていかねばならない。と言う。
そういう教えがどこかであった気がする。今まで同意していたのだが宗教洗脳催眠ってなんだろうなと考えていたら別にそうは思わなくなった。
日本社会教に属していようともそこには様々な宗派がある。過激派もいれば調和を図る宗派もあったり様々だろう。当たり前だ。例え日本社会教に属している者同士であったとしても人は人っ子一人完璧に同じ考え方を持つ者はいないのだから。
人とコミュニケーションする時は宗教の違いで対立してはならない。戦争に発展しかねないから。別に戦争したいのならすれば良いけれど、その人とコミュニケーションをとるのが目的なのならその人の宗教を「それは違うよ!」と真っ向から否定してはならない。その人と自分の違いを認識し理解した上でコミュニケーションをとっていけばいい。そしてもし、その人を自分のものにしたいだとか、その人の思想思考行動を変えたりしなきゃいけない時は催眠というプロセスを踏んで、洗脳していけばいい。
人は異教を持っている事を知る事。それが自他の違いであると感じる事。兎にも角にも、それをしなきゃ人との繋がりは始まらない。宗教、洗脳、催眠。営業と同じく、これらもコミュニケーションのうちの一つにすぎず、会話の状態でしかなかった。
何故わかったの?だって?それは私が営業師だからだ。
…
私たちが日本人をやっているからかはわからないけれど実際宗教って怖いイメージがある。外国ではイスラム国だとか、無宗教国家と言える日本でもオウムだとか、創価学会だとか。催眠術を使われ洗脳され、信者は教祖の操り人形になってしまう。操り人形にされてしまった信者は怖いこと、恐ろしいこと、汚いことを平気でやれるようになってしまう。
殺人、テロ、強姦。自殺、布教、不貞。
とても怖い。
宗教の何が怖いのかって、恐らく洗脳にあると思う。
洗脳とはなんだろう?
洗う脳みそ。
と言うことは脳みそを綺麗にされてしまうということだろうか。
何だかそんなに悪い意味ではなさそうな気がするのだが…
意味を調べたら第二次世界大戦に出来たわりかし若めな言葉らしい。
人の考えの根本を覆す事。それが意味らしいが…
確かに見解の相違で喧嘩する事はあるけれど、
新しい知見を知ったりするのは普段身近にあり得る事では?
そんなに恐怖するものの事でもない気がする。
怖いのは洗脳をさせるための手段である催眠術だろうか?
催眠術ってなんだろう?
催す眠りの術。
眠り、最近よく口にするトランスに導く方法ということだろう。
催眠術は医療の現場で使われている。その場合催眠療法と名前が変わるが。
自分自身にかける催眠術もある。読んで字のごとく自己催眠。
確かに眠ってる時にイタズラされるのは嫌な事だけれど…
別に眠ってる時に額に肉ってマジックで書く奴が悪いのであって、
これら自体は悪いことではない。むしろいいことに使われていたりする。
怖いのは洗脳でも催眠術でもなさそうだ。
では何故我々はこういった宗教、洗脳、催眠が怖いものと感じるのか。
これらの単語に共通する我々が恐怖してしまうものは何か。
それはきっと自分が自分で無くなってしまうという恐怖心だ。
自分の意図していないところで自分の不本意に自分を変えられてしまうのが怖いのだろう。
人は急激に変わることを恐れる。最近そんなようなことをよくテレビやネットで耳にする。全くもってそうだろう。変わることは怖いことなのだ。自分の存在の秩序を守ろうと生理的に働く。人は自分の存在を変えられてしまうものと出会う時対立をする。むかっとしたり、モヤっとしたり。それがそのまま口に出たり拳になったりもするだろう。この対立とは己の秩序を守るための生理的反射なのだ。
だから宗教!っときくと何だか体の臓器の奥底から感情が湧き出るようにそれを否定したくなる。洗脳、催眠と聞くと怪しいな、怖いなっていう暗いイメージが頭上をつきまとう。仕方ない。反射なのだから。だがそれは宗教洗脳催眠に対する恐怖の反射ではなく、自分が変わりたくないという生理的現象なのだ。
こういう人がいる。
私は宗教にははいってないし、洗脳もされたことはない、確固たる強い意思があるから催眠術にもかからない自信があるなどと主張してしまう人。ちょっとおかしい。実は人はなにかしら宗教に属していて、尚且つ洗脳もされていて、生きている限り常に催眠状態にかかっているのに。
人を殺してはダメです。
人を犯してはダメです。
人の物を取ったらダメです。
これはいわば宗教だ。はぁ?宗教ちゃうやろただの常識的な考え方やろと思うかもしれない。だがそれは事実だ。その常識的考え方が宗教だ。この殺犯盗の禁止は「日本社会」教という宗教の教えなのだ。信者の私が言っても説得力はないが素晴らしい教えだよね。
人を殺していい。
人を犯していい。
人の物を盗んでいい。
実際こういった教えをしている宗教はもちろんある。例えば常に紛争状態の国だとか。殺犯盗しなきゃ自分がやられる。だからせざるおえない。可哀想だとか、絶対やめたほうがいいと言うのはお門違いだという事だ。この宗教の人達も我々と同じように、はぁ?と我々のことを思うに違いない。
宗教というよりかは倫理観といった物の方がわかりやすいだろうか。
人によって倫理観がまるで違う。
宗教とは考え方や、信じているもの事。
宗教は絶対的なものと考えがちだけれど、国違えば、いや、国が同じでも県違えば、いや、県同じでもお隣さん同士で宗教は違うのは当然だ。だってあなたと一寸のズレもなく同じ生き方をした人は一人もいないのだから。このズレが宗教の違いを生み出す。まぁ、それでも。大まかな考え方というのは国ごとに統一されている。
日本社会教には性愛に関する教えがいくつかある。
「ナンパ」はいけないこと
何人との女の子と「エッチ」するのはいけないこと
浮気や不倫や寝取りはいけないこと
嘘を言ってはいけないこと
そんな洗脳を日本に生まれ住んだ者はいつの間にかされていた。営業契約は悪だということをだ。はぁ?当たり前やろと思うかもしれない。それはあなたが日本社会教の信者であり、日本社会教の宗教を深く硬く強く信条しているからだ。営業契約が悪であるという洗脳をこの日本社会でいつの間にかされていたからだ。(PUA教や恋愛工学教はこれと真逆のことを真と説いている。だが忘れてはならない。女の子に営業をかける前に、その子は日本社会教に洗脳されているという事実を。私の属する宗教では営業とはその事実を知った上でどうしていくかが大切であるという教えだ。声をかけたその瞬間から全ては信者の持つ倫理観に委ねられる。)
第二次世界大戦に作られたこの洗脳という言葉の意味とは少しニュアンスが違うとは思うが、洗脳とは宗教の教えを頭の中にインプットする事の意味も持っていると私は思っている。ということは洗脳には二つの段階があるように考えられるな。元ある意味である既存の宗教の考えをなくす事を洗脳(破壊)と呼び、新たな宗教の考えを植え付ける事を洗脳(創造)と呼ぶようにしよう。
宗教と洗脳とは我々の人格だとか倫理観を形成していくうえで大切なものといえそうだ。
また、人は常に催眠状態にあると私は思っている。
洗脳に忠実に行動を起こしている自分というのも催眠状態だし、異なる宗教に嫌悪感を示している状態もまた催眠状態の一つに過ぎない。エロ催眠で例えるなら、前者は何故か勝手に服を脱ぎだしている状況、後者は手で作った輪っかに指を出し入れされてオーガニズムを迎えている状態に近いだろうか。もっともこれらは催眠状態というよりかは催眠が完了した状態。適切な言葉がわからないから催眠(緊張)状態とでも名付けとくか。
眠っている状況、ふわふわしてる、暗示をかけられる状態にも人間は良くなっている。
例えば金曜会社終わりの電車の中。昼は会社の宗教に縛られている。ストレスだろう、だが夜になるとそれから解放された状態になる。はぁー疲れたぁ。といった何だか抜けたような感覚がある。それが催眠(緩和)状態に近いかなぁと思う。この時に何か暗示、例えば営業をかけられたら「ま、いっかな」とおもって契約してしまったりする。もしくは更に暗示をかけられて、この人と契約しまくりたいいいいい!とか、この人とずっと一緒にいたいいい!とかこの人のためならなんでもするううう!だとか。自分の宗教が書き換えられてしまうかもしれない。
そんな、いいいいいいいい!な感じになりたくないと思う人はいると思う。いいいいいい!なんて言ってる人はぶっちゃけきちがいにしか見えない。さっきも言った通り、人は変わりたくないという生理的現象がある。だが実は同時に変わりたいという欲求も兼ね備えている。あなたは永遠にずっとスーツで仕事をし続ける人間でありたいですか?やすみてえええええええ!って思う事があるだろう。変わりたい自分がいる。だから飲み会があるのだ。逆にあなたはずっと羽目を外しまくって遊び続けたいですか?世間の目いてえええええええ!って思いそろそろスーツ着て仕事しなきゃなって思うだろう。秩序を永遠に続ける事は実はできない。人は時として混沌を求め、そこに快楽を感じ得る。混沌は秩序状態にある人から見るぶんにはただの恐怖でしかない。だがその恐怖は快楽に変わる性質も同時に秘めている。
人は快楽を快楽を恐怖し、恐怖を快楽にできる生命体らしい。
Beforeとafterしか見ていないと宗教や洗脳、催眠を怖いものだと捉えやすい。
だってそれはやると思ってなかった人が笑いながら犯罪するような人に変わってしまったから。
だってそれは勤勉ガリ勉だった少年が金髪ホスト風な営業師に激変しているから。
だってそれは清楚なお嬢様がメンヘラビッチに変貌を遂げているから。
マイナスイメージは人の脳裏に思いっきり焼きつく。だから宗教洗脳催眠という言葉に自分はそうなりたくないなというものが入り込むんだ。だが、Beforeとafterの間にある過程を垣間見れば、これらをただ単純な恐怖のものだとは感じ得ないし、むしろ日常的に繰り返されている身近であり、自分にもあり得るであろう現象の一つに過ぎないものだと知ることができる。
宗教は考え方。
洗脳は破壊し創造させるもの。
催眠は緊張と緩和している状態。
世の中にある恐怖は日常を大げさにしただけだ。
信者という人たちは果たして宗教に洗脳され騙されているのだろうか?救いを求め、実際に救われている(と感じている)のだから騙されてはいないんだと思う。少なくとも信者らは騙されていることを知らない。それで幸せなのだから。だから信者の彼らに可哀想だとか、やめたほうがいいよと言うのは、「男の子がモテるには女の子に沢山貢ぐこと、優しくすること、寂しい時にいつも側にいてあげること」と我々PUAに言うことと同義だ。自分を否定されるということは対立せねばならないことなのだから。信者らをどうにかしてあげたいのなら催眠術を用いて新しく洗脳し直すしか術はないとおもう。洗脳をうけ、宗教が破壊された時、人は騙されていたと気がつく。
営業は悪だと言う。また、悪である事を認識しながら営業を行っていかねばならない。と言う。
そういう教えがどこかであった気がする。今まで同意していたのだが宗教洗脳催眠ってなんだろうなと考えていたら別にそうは思わなくなった。
日本社会教に属していようともそこには様々な宗派がある。過激派もいれば調和を図る宗派もあったり様々だろう。当たり前だ。例え日本社会教に属している者同士であったとしても人は人っ子一人完璧に同じ考え方を持つ者はいないのだから。
人とコミュニケーションする時は宗教の違いで対立してはならない。戦争に発展しかねないから。別に戦争したいのならすれば良いけれど、その人とコミュニケーションをとるのが目的なのならその人の宗教を「それは違うよ!」と真っ向から否定してはならない。その人と自分の違いを認識し理解した上でコミュニケーションをとっていけばいい。そしてもし、その人を自分のものにしたいだとか、その人の思想思考行動を変えたりしなきゃいけない時は催眠というプロセスを踏んで、洗脳していけばいい。
人は異教を持っている事を知る事。それが自他の違いであると感じる事。兎にも角にも、それをしなきゃ人との繋がりは始まらない。宗教、洗脳、催眠。営業と同じく、これらもコミュニケーションのうちの一つにすぎず、会話の状態でしかなかった。