ラポールと身体知トークライブ、感想
- 2015/06/20
- 00:57
※追記。ふと思い出したので、紀伊国書店さんの動画を張っておきます。自分のリスニング能力の低さに痛感。
__________
ぽーっとしている。
あの会はなんだったのだろうとウン時間たった今でも思う。
私は高石氏のイベントに行ってきて頭の中がすっからかんになってしまった。根本的な原因ははっきりしている。あの空間で私にだけ有効な最後の仕掛け。氏にまんまとやられた私は動揺を隠しきれず、その時の腰と首と口がひん曲がった奇妙なリアクションは連れの子にも
「QBwwwwwさんwwwwwww」
と笑われた。
紀伊国書店南口店。本店の方と間違ったため少し遅れてしまった。着いた時、本屋さんの一角に人だかりができていた。用意された座席だけでは足らず、立ち見含めて4〜50人ほどだろうか。ふらっとスポットなのに全然フラットに立ち寄れないそこはまるで、終電の埼京線の1車両を切り取ったかのよう。
トークライブ今まさに始まろうとしていた時だったらしい。ぴったり間に合った。その一角の中心にひょろっとした痩せ型の男性が立っていた。遠目からだったので一瞬しかみえなかったが、その男性はたまたまだろうか、腕を体の前方に出し、前屈みに猫背をしていた。その姿からVネックの黒いシャツの向こう側の胸板はカルデラの如く凹んでいるんじゃないかと錯覚を覚える。そんな形相からサルエルパンツは寝巻きのスエットと見間違える。そんな男性を見て、私は背中の産毛が逆立つような感覚がした。この感覚は以前も体験している。そして確信した。
彼が高石氏だと。
生で見る高石氏はネットの配信で初めてその姿を見た時と全く同じ感覚であった。いや、それよりも大きな感覚だったかもしれない。「元カリスマナンパ師」とはとても思えない印象。ネットで見てた時は本当に衝撃で、本当にこんな人がいていいのかと、三次元の人間の動画なのに半信半疑で目を凝らして動画を見ていたと思う。
そんな人が現実に、確かに私の目の前に存在している。ネットで知りリアルで会うという現象にネトナンがあるが、会うと大抵幻滅する。まれにくるスト高だと興奮する。しかし、今日この日は、まるでネトナンアポ時の幻滅と興奮が入り混じったかのようなマカ不思議な感覚に駆られたのだった。
よく見えるところに行こうと連れがいるのすらもう頭になく(申し訳なく思う)、そんな氏を目に捉えながら立ち見の位置が定まる。群衆のちょうど真ん中。座席と立ち見の境界の列に並ぶことになった。お客さんの年齢層は20〜30ほど。ぱっと見た感じ営業師特有の雰囲気を感じさせるような人はいなかった。だが、私の目の前の座席だけはギラついた雰囲気があった。ホストの様なヘアスタイルでビジュアル系なオシャレマスクをした人と、クリーム色の染めたてな髪の毛の足を組んだ小柄な人。会終了後に胸を押さえながら見たツイッターでこの方々が営業講習も行っている凄腕の方たちだったということを知った。
店員さんのアナウンスの後に何か、そんな感じに、いつの間にかトークライブは始まっていた。
「凄腕のナンパ師の方がいらっしゃいますが」
という高石氏の第一声。ネットで聞いた通りの声。初めはボソボソ根暗?と思うような感じだが、3秒後には穏やかで優しそうな雰囲気を感じられる声。初見の連れは知的な声と言っていた。
この会をどんな内容で話していくのか、高石さんも特に決めていないように感じた。完全に手ぶらできた感じ。ああなるほど、その手持ちのなさ、手ぶらさ、手軽さがサルエルパンツをスエットに見間違える原因の一つか、そう勝手に氏のことを思い込んでいる中、初めに高石氏から我々に質問があった。
「この本読みました?」
最前列に座っている方がさされる。
読んでいない。
「聞く相手間違えましたね笑」
凄腕営業師の隣の人がさされる。
読んでない。
「また聞く相手間違えましたね笑」
「読んでないのになんでこられたんですか?」
ネットで高石さんに影響を受け、一目見て、雰囲気や言動を感じ取ろうと思って来た。
急に刺されて緊張しているのか、声を震わせながら答える。何かを思い出しながらいう様に、説明書を音読するかのように。別にそこまで緊張しなくてもいいのに…
脱力系だった高石師はいつの間にか身を乗り出すような雰囲気でその1人のお客さんを見ていた。因みに刺すの字は指すの字ではない。
「見て聞いてるだけでいいんですか?」
高石氏は笑顔でそういった。
私の背筋がまたたったのが感じられた。今度は鳥肌だ。
(出た!S!出た!営業師顔!)
コンプレックスを突き刺すような発言。それを穏やかな声でされるから恐ろしい。優しく素やく心臓目掛けナイフを突きつける。そのナイフはお客さんの1人のみならず私の心臓にも突き刺さっていた。私もそのお客さんと同じような事を考えてきていたからだ。前日の記事に書いた通りの事だった。本の質問会だけれど、その雰囲気味わうだけでいいや、憧れの人を目に焼き付けておこう、そう思っていたのだった。その矢先にこの言葉のナイフである。
これが動画内でもピリピリと感じられた高石氏の第二印象であった。緊張を受ける事で、私はようやく営業師として見る高石師を感じ取る事ができた。安心して口元がにやけていた。幻滅と興奮を味わっていた私の感情は緊迫と喜びに包み込まれたようだった。前日の目標はもう達成できてしまった。
高石師の隣に座られている洋風ダンディズムなジェントルマンは江坂氏。この「あなたは、なぜ、つながれないか」の編集をされた方だ。私の知るところだと、江坂氏とは、まだ営業師だった高石氏に気功を教え、その結果カリスマな営業師を引退に追い込んだ張本人である。高石氏がこの素晴らしい悪魔の手引き書を作るにあたり多大な影響を与えた人物だ。
高石氏はその江坂氏との関わりについてから語った。
高石氏と江坂氏だけで40分、質問を交えながらの15分であった。
うる覚えだが、
・ラポールと身体知は書籍化する試みが何度かあったこと
・江坂氏のおかげで書籍化できたこと
・江坂氏は気功や武術についてべつに戦う術等全て教えてくれた訳ではないこと
・講習をすると気が狂いそうになること
・その気狂いは腕を振るという行為だけで随分と気持ちが楽になったこと
・江坂氏はネットにある高石氏の動画を見て体の動きに不自然さがあることを感じ取り、初めて知ったこと
・高石氏は右足が左足の歩みが不自然だったということ
・歩き方を教えてもらう時は〜をこうして下さいときめ細かに動きを指摘されながら、といったものではなく、その足に触ることなくあるべき姿に導いていく様だったということ。
・高石氏とは6時間くらい会話をしてたりする仲だが正直虎を隣に置いているかの様な感じだということ
・高石氏はカウンセリングをすると消耗してしまい一日1人が限度だということ
・出来た本を見た時パニック症状が現れて頭が真っ白になり途中下車して散歩しながら気持ちを落ち着かせたということ。
・本に仕掛けられた催眠トリックのこと。
・実は講習で「いい講習だった」と書く様に催眠をかけた時があったということ。
・よく1人で飲みに行くこと
・キノコ料理が美味しいこと
だいたいそんな様な事をはなしていた気がする。全てではないが。聞き間違っているかもしれないから後日紀伊国書店さんがムービーを配信してくれる時にまた確認したい。
会場は集中して高石氏、江坂氏の話を聞いている。私も集中して聞かなくてはと思っていたのだが、人間やはり全てを聞き取るのは難しい。高石さんはトーク内容が手ぶらであろう状態にもかかわらず、すらすらと話をすすめていた。もしかしたらそのように見せているだけなのだろうか…?わからない。初めて間近で見る高石氏の話は、まるで思い出話をするかの様な雰囲気であった。江坂氏の事を語っていくその姿は無邪気な子供の様にも、懐古厨のお婆ちゃんの様にもみえた。生き生きと話している高石氏の姿はもう、おどおどでスエットな雰囲気は微塵も感じられなかった。深くトランスに入りながら会話しているのだろう。非常に濃い1時間のトークであった。
話し方で気になったところがあった。相槌だ。高石氏は相槌を全てマイクの中に入れるように声を落としこんでいた。相槌を入れる時いちいちマイクに口を近づけたり、口にマイクを持って行ったり。傾聴のスキルが自然体に身についているのだろうか。口にする言葉を大切にしているのだろうか。マイクの位置に注意している様に感じた。対し、江坂氏は黙ってうんうんと頷くだけ。体で高石氏の話を聞き受け止め、体で相槌をうっている。その動作はまるで父親のような。信頼している相手に対してする様な感じがした。
以前のトークイベントで宮台真司氏と高石氏が話されていた「非言語的」がここに現れているのが凄まじく感じられた。私は高石氏は言語的であるように感じた。これは長年カウンセリングや、営業、スカウトでのスキルが体に染み込んでいるからだろうか。そんな言語を身に染みるほど磨いてきた高石氏は「非言語的」な達人である江坂氏に指導を受けた。そこでの気功の数年間が高石氏の言語にメタを張るようにして高石氏の中に吸収されていって今の氏がいるのではないだろうかという事を感じた。
歩き方が変わると「ナンパ」が出来なくなる。そう江坂氏も「ナンパ」をなくした高石氏も言っていた。営業師は皆、足が地についていないような、あまりにも軽い下半身をしているらしい。足に意識を置く事で我々は営業が出来なくなってしまうらしい。言語が足取りを軽くしていくのだろうか。言葉をなくした時、我々は「ナンパ」をなくし、足取りを重くするだろうか。
私が高石氏が語る江坂氏について印象に残ったものは、自分にそれらを教えてくれて、将来自分が今のようになるであろうという高石氏の将来像は師である江坂氏の中ですでに見えていたのではないか、ということ。未来決定説を肯定する発言。
この未来決定説は本の中にも書かれていた気がする。文字にはそうは書かれていない。全体を通して、この部分を読むと読者はこうなるであろうだとか、一からこの本全てを読み終えるとこの人はこうでこの人はああなるのだろうと既に予測して作られていたかの様な。あるべき未来に誘導されているかの様な。そんなイメージを抱きながらこの本を随筆されたのだろうか。
また、帯についての語りも印象的であった。宮台真司氏の本書についての紹介の事についてだ。
「本書は悩む人のために書かれたものではない。むしろ悩まずに生きる人たちに焦点が当てられている」
この紹介があったからこの本はアメトークの読書芸人の映像の切れ端にひっそりと映るほどになったのかもしれない。確かにそうだ、私は深くうなづいていた。この宮台真司氏の帯から発するヒトツキが私の心に何か不審なものを思わせ、購入するに至ったのだった。この帯はこの本をより効果的な大きな物に変え、悩まずに街を歩く私達を諷刺し、虜にした。
質問を交えたトークになる。
私は高石氏の話を聞いて聞いてみたい事が二つ出来ていた。私は氏のトーク中、これらの事が気になってウズウズしてしまっていた。
まず、足を軽くすると出来る営業は逆に足を重くして声をかけた行く事は出来ないのかという事。そして、この本の帯に刺されて更にこの本にこれからやろうとしてきた営業ルーティーンワークを否定され、改めて営業を進めていこうとしている新人営業師のいく末は高石氏の頭の中には思い描かれているのか、という事。
最後の質問ですとなって、その時手をあげる事ができなかった自分を私は悔いた。聞かぬは一生の恥だろと思った。でも何だかちょっと怖くて緊張して、自分の中で1人、葛藤していた。私は結局このイベントで地蔵をした。
私にしては本当に珍しい現象だった。大学の卒論発表の時は興味がある事は院生や教授でもないのに学部生1人手を上げて質問をする輩(とは言っても友達の発表に対してちょっとした悪戯心が働く程度)だったのに。この手の自分に非常に関連のあるイベントでは大抵積極的になる筈なのに。こういう時は大抵ハイになっていて目先の事に非常によく食いつき、異常なまでの関心を示す状態だ。こういう時、自分は会話をしているのに自分がそこにはいない様な感覚に陥る。…よくよく考えてみれば、ストリートで営業をしている時もこれと全く同じハイな状態の自分になっていたのかも、と今更ながらふと思ったのだった。
だが、そんなハイな自分とは全く別の人格がいる。地蔵をする人格だ。なんとか言われたらどうしようとか、怖いなと思ったりだとか。内向的になりがちな自分だ。この時私は先とは逆に、自分しか見れていない。自分が、湧き出る感情が、ロウな感情な私はありもしない相手の感情が怖いなと思い体が硬直する。たくさん同業者がいるんだから誰か私の代わりに言ってくれ〜!とも思った。人に声をかけるエキスパートがこの中には沢山いる筈である。が、みんな地蔵していた。
ストリートで声かけノックをした時の事を思い出した。あの時自分は地蔵の自分を殺していた。自分を押し殺すというよりかは声をかける事による羞恥を用いて地蔵してしまう自分を嬲り殺す。画期的なアイディアだと当時は思っていた。
この本を読んで、また今日の話を聞いて新たな悩みを持ってくれたらそれは成功だ。
と高石氏は言っていた。トーク中、私はそれでは困る、いけないと思っていた。
質問できず、地蔵してしまい、ハイな状態の自分はショックだった。
だが今ブログを書きながら思う。やはり質問をしなくて正解だったということを。
それに気がついた時にはもう、あの時聞きたかった質問の答えは出てしまっていた。自分で解ける問題だった。自分で解ける問題は是非自分で解くべきだ。その解くべき過程にこそ価値がある、という事を私はあのトークライブにて知る事ができたのだった。
あの時質問していたらどうなっていたのだろう。また、答えが知りたいと思い早速カウンセリングを受けると氏にメールを送ってしまっていたらどうなっていたのだろう。きっと私は依存してしまっていたに違いない。依存とは緩やかな自殺である。答えを自分以外の誰からか教えてもらうというのは自分の体の中から自分をなくすということと同義だ。そしてその人なしには生きていけなくなる。何故なら、自分の体の中身に入っているのは自分自身ではないのだから。
悩みとは自分形成そのものである。私はあのトークライブにて、いや、トークライブを通じてこの記事を書き始めてから初めて学び知り得ることができた。
また新たな一歩を踏み出せそうな気がした。
トークライブがすべて終わった時だった。
それはこの本は結構売れているのにメディアで全然取り上げられない!と江坂氏が嘆いていた時の事だった。高石氏は
「読んだらぜひ感想かなにか書いてくれると嬉しいです」
無理じゃないかなと私は思った。
確かにこの会の感想はツイッターのタイムラインにて見る事ができるだろう。だがツイッターは140字までしか書けない。140字で語れる事なんてたかが知れている。一言二言だ。良いライブトークだった。こんな感じだろう。良いわけあるか!というか、良いとか悪いで片付けられねぇよこのトークは…!ブログなりFacebookかなにかで感想文みたく、ライターの如く、書き起こすしか術はない。Facebookも文字制限があるし、SNSで長文晒す奴なんてなんの金を貰わずに書く奴なんてこのご時世いない。断言する。いない。いるわけがない。そんな奴がいたらきっとバカかメンヘラにちがいない。若しくは両方だ。その両方とは私の事だった。
この記事を書いていて思ったのが、私は記事を書きながら物事を考えているのだなと知った。テーマとオチ(も用意してない事もあるが)のみを用意して記事を書いている。だから書き始める時と書き終えた後で意見が変わっていたりするのだ!更に、書き終えてからも意見が変わり書き直す事も多々ある!!
結論を出すためにもこのブログ作業は私にとって必要である。このブログはほぼ、自己内省のために書かれているところがある。考えながら書いている時はトランスに入る事ができるから疲れるけれども心地よい。また書かねばならない事が沢山増えたなと、心の嬉し悲鳴をボソボソと内省につぶやいていた。丁度その時だった。
「魔法少女まどかマギカのキャラクターのナンパ師がいるんですけど」
ん?
「その人は面白くてですね、ナンパの事を『営業』と呼んでいるんです」
(私かよッッッッツ!!!!!!)
私は二度、氏のナイフで刺された。しかも名指しである。
私の事を知っている人はいないだろう。いや、いないだろう思っていた。まさかのトークの主役が知っていたのだ。
フーンアッソな雰囲気の中、そして高石氏は何気なく私を上げたのだろうけれど、刺された私は驚きと恥ずかしさ、おい!という数ミリ程のノリツッコミと数ナノミクロンの小さな喜びで腰と口と首がひん曲がっていた。
その後、魔法少女契約(ゴムすら持たず手ぶらできていたので指までしか入らない契約)をし、色々なところがひん曲がったまま、『初めての高石氏』は幕を閉じた。
ひん曲がりたい方は是非おすすめ。そして氏のカウンセリングに行ってみては如何でしょうか。
__________
ぽーっとしている。
あの会はなんだったのだろうとウン時間たった今でも思う。
私は高石氏のイベントに行ってきて頭の中がすっからかんになってしまった。根本的な原因ははっきりしている。あの空間で私にだけ有効な最後の仕掛け。氏にまんまとやられた私は動揺を隠しきれず、その時の腰と首と口がひん曲がった奇妙なリアクションは連れの子にも
「QBwwwwwさんwwwwwww」
と笑われた。
紀伊国書店南口店。本店の方と間違ったため少し遅れてしまった。着いた時、本屋さんの一角に人だかりができていた。用意された座席だけでは足らず、立ち見含めて4〜50人ほどだろうか。ふらっとスポットなのに全然フラットに立ち寄れないそこはまるで、終電の埼京線の1車両を切り取ったかのよう。
トークライブ今まさに始まろうとしていた時だったらしい。ぴったり間に合った。その一角の中心にひょろっとした痩せ型の男性が立っていた。遠目からだったので一瞬しかみえなかったが、その男性はたまたまだろうか、腕を体の前方に出し、前屈みに猫背をしていた。その姿からVネックの黒いシャツの向こう側の胸板はカルデラの如く凹んでいるんじゃないかと錯覚を覚える。そんな形相からサルエルパンツは寝巻きのスエットと見間違える。そんな男性を見て、私は背中の産毛が逆立つような感覚がした。この感覚は以前も体験している。そして確信した。
彼が高石氏だと。
生で見る高石氏はネットの配信で初めてその姿を見た時と全く同じ感覚であった。いや、それよりも大きな感覚だったかもしれない。「元カリスマナンパ師」とはとても思えない印象。ネットで見てた時は本当に衝撃で、本当にこんな人がいていいのかと、三次元の人間の動画なのに半信半疑で目を凝らして動画を見ていたと思う。
そんな人が現実に、確かに私の目の前に存在している。ネットで知りリアルで会うという現象にネトナンがあるが、会うと大抵幻滅する。まれにくるスト高だと興奮する。しかし、今日この日は、まるでネトナンアポ時の幻滅と興奮が入り混じったかのようなマカ不思議な感覚に駆られたのだった。
よく見えるところに行こうと連れがいるのすらもう頭になく(申し訳なく思う)、そんな氏を目に捉えながら立ち見の位置が定まる。群衆のちょうど真ん中。座席と立ち見の境界の列に並ぶことになった。お客さんの年齢層は20〜30ほど。ぱっと見た感じ営業師特有の雰囲気を感じさせるような人はいなかった。だが、私の目の前の座席だけはギラついた雰囲気があった。ホストの様なヘアスタイルでビジュアル系なオシャレマスクをした人と、クリーム色の染めたてな髪の毛の足を組んだ小柄な人。会終了後に胸を押さえながら見たツイッターでこの方々が営業講習も行っている凄腕の方たちだったということを知った。
店員さんのアナウンスの後に何か、そんな感じに、いつの間にかトークライブは始まっていた。
「凄腕のナンパ師の方がいらっしゃいますが」
という高石氏の第一声。ネットで聞いた通りの声。初めはボソボソ根暗?と思うような感じだが、3秒後には穏やかで優しそうな雰囲気を感じられる声。初見の連れは知的な声と言っていた。
この会をどんな内容で話していくのか、高石さんも特に決めていないように感じた。完全に手ぶらできた感じ。ああなるほど、その手持ちのなさ、手ぶらさ、手軽さがサルエルパンツをスエットに見間違える原因の一つか、そう勝手に氏のことを思い込んでいる中、初めに高石氏から我々に質問があった。
「この本読みました?」
最前列に座っている方がさされる。
読んでいない。
「聞く相手間違えましたね笑」
凄腕営業師の隣の人がさされる。
読んでない。
「また聞く相手間違えましたね笑」
「読んでないのになんでこられたんですか?」
ネットで高石さんに影響を受け、一目見て、雰囲気や言動を感じ取ろうと思って来た。
急に刺されて緊張しているのか、声を震わせながら答える。何かを思い出しながらいう様に、説明書を音読するかのように。別にそこまで緊張しなくてもいいのに…
脱力系だった高石師はいつの間にか身を乗り出すような雰囲気でその1人のお客さんを見ていた。因みに刺すの字は指すの字ではない。
「見て聞いてるだけでいいんですか?」
高石氏は笑顔でそういった。
私の背筋がまたたったのが感じられた。今度は鳥肌だ。
(出た!S!出た!営業師顔!)
コンプレックスを突き刺すような発言。それを穏やかな声でされるから恐ろしい。優しく素やく心臓目掛けナイフを突きつける。そのナイフはお客さんの1人のみならず私の心臓にも突き刺さっていた。私もそのお客さんと同じような事を考えてきていたからだ。前日の記事に書いた通りの事だった。本の質問会だけれど、その雰囲気味わうだけでいいや、憧れの人を目に焼き付けておこう、そう思っていたのだった。その矢先にこの言葉のナイフである。
これが動画内でもピリピリと感じられた高石氏の第二印象であった。緊張を受ける事で、私はようやく営業師として見る高石師を感じ取る事ができた。安心して口元がにやけていた。幻滅と興奮を味わっていた私の感情は緊迫と喜びに包み込まれたようだった。前日の目標はもう達成できてしまった。
高石師の隣に座られている洋風ダンディズムなジェントルマンは江坂氏。この「あなたは、なぜ、つながれないか」の編集をされた方だ。私の知るところだと、江坂氏とは、まだ営業師だった高石氏に気功を教え、
高石氏はその江坂氏との関わりについてから語った。
高石氏と江坂氏だけで40分、質問を交えながらの15分であった。
うる覚えだが、
・ラポールと身体知は書籍化する試みが何度かあったこと
・江坂氏のおかげで書籍化できたこと
・江坂氏は気功や武術についてべつに戦う術等全て教えてくれた訳ではないこと
・講習をすると気が狂いそうになること
・その気狂いは腕を振るという行為だけで随分と気持ちが楽になったこと
・江坂氏はネットにある高石氏の動画を見て体の動きに不自然さがあることを感じ取り、初めて知ったこと
・高石氏は右足が左足の歩みが不自然だったということ
・歩き方を教えてもらう時は〜をこうして下さいときめ細かに動きを指摘されながら、といったものではなく、その足に触ることなくあるべき姿に導いていく様だったということ。
・高石氏とは6時間くらい会話をしてたりする仲だが正直虎を隣に置いているかの様な感じだということ
・高石氏はカウンセリングをすると消耗してしまい一日1人が限度だということ
・出来た本を見た時パニック症状が現れて頭が真っ白になり途中下車して散歩しながら気持ちを落ち着かせたということ。
・本に仕掛けられた催眠トリックのこと。
・実は講習で「いい講習だった」と書く様に催眠をかけた時があったということ。
・よく1人で飲みに行くこと
・キノコ料理が美味しいこと
だいたいそんな様な事をはなしていた気がする。全てではないが。聞き間違っているかもしれないから後日紀伊国書店さんがムービーを配信してくれる時にまた確認したい。
会場は集中して高石氏、江坂氏の話を聞いている。私も集中して聞かなくてはと思っていたのだが、人間やはり全てを聞き取るのは難しい。高石さんはトーク内容が手ぶらであろう状態にもかかわらず、すらすらと話をすすめていた。もしかしたらそのように見せているだけなのだろうか…?わからない。初めて間近で見る高石氏の話は、まるで思い出話をするかの様な雰囲気であった。江坂氏の事を語っていくその姿は無邪気な子供の様にも、懐古厨のお婆ちゃんの様にもみえた。生き生きと話している高石氏の姿はもう、おどおどでスエットな雰囲気は微塵も感じられなかった。深くトランスに入りながら会話しているのだろう。非常に濃い1時間のトークであった。
話し方で気になったところがあった。相槌だ。高石氏は相槌を全てマイクの中に入れるように声を落としこんでいた。相槌を入れる時いちいちマイクに口を近づけたり、口にマイクを持って行ったり。傾聴のスキルが自然体に身についているのだろうか。口にする言葉を大切にしているのだろうか。マイクの位置に注意している様に感じた。対し、江坂氏は黙ってうんうんと頷くだけ。体で高石氏の話を聞き受け止め、体で相槌をうっている。その動作はまるで父親のような。信頼している相手に対してする様な感じがした。
以前のトークイベントで宮台真司氏と高石氏が話されていた「非言語的」がここに現れているのが凄まじく感じられた。私は高石氏は言語的であるように感じた。これは長年カウンセリングや、営業、スカウトでのスキルが体に染み込んでいるからだろうか。そんな言語を身に染みるほど磨いてきた高石氏は「非言語的」な達人である江坂氏に指導を受けた。そこでの気功の数年間が高石氏の言語にメタを張るようにして高石氏の中に吸収されていって今の氏がいるのではないだろうかという事を感じた。
歩き方が変わると「ナンパ」が出来なくなる。そう江坂氏も「ナンパ」をなくした高石氏も言っていた。営業師は皆、足が地についていないような、あまりにも軽い下半身をしているらしい。足に意識を置く事で我々は営業が出来なくなってしまうらしい。言語が足取りを軽くしていくのだろうか。言葉をなくした時、我々は「ナンパ」をなくし、足取りを重くするだろうか。
私が高石氏が語る江坂氏について印象に残ったものは、自分にそれらを教えてくれて、将来自分が今のようになるであろうという高石氏の将来像は師である江坂氏の中ですでに見えていたのではないか、ということ。未来決定説を肯定する発言。
この未来決定説は本の中にも書かれていた気がする。文字にはそうは書かれていない。全体を通して、この部分を読むと読者はこうなるであろうだとか、一からこの本全てを読み終えるとこの人はこうでこの人はああなるのだろうと既に予測して作られていたかの様な。あるべき未来に誘導されているかの様な。そんなイメージを抱きながらこの本を随筆されたのだろうか。
また、帯についての語りも印象的であった。宮台真司氏の本書についての紹介の事についてだ。
「本書は悩む人のために書かれたものではない。むしろ悩まずに生きる人たちに焦点が当てられている」
この紹介があったからこの本はアメトークの読書芸人の映像の切れ端にひっそりと映るほどになったのかもしれない。確かにそうだ、私は深くうなづいていた。この宮台真司氏の帯から発するヒトツキが私の心に何か不審なものを思わせ、購入するに至ったのだった。この帯はこの本をより効果的な大きな物に変え、悩まずに街を歩く私達を諷刺し、虜にした。
質問を交えたトークになる。
私は高石氏の話を聞いて聞いてみたい事が二つ出来ていた。私は氏のトーク中、これらの事が気になってウズウズしてしまっていた。
まず、足を軽くすると出来る営業は逆に足を重くして声をかけた行く事は出来ないのかという事。そして、この本の帯に刺されて更にこの本にこれからやろうとしてきた営業ルーティーンワークを否定され、改めて営業を進めていこうとしている新人営業師のいく末は高石氏の頭の中には思い描かれているのか、という事。
最後の質問ですとなって、その時手をあげる事ができなかった自分を私は悔いた。聞かぬは一生の恥だろと思った。でも何だかちょっと怖くて緊張して、自分の中で1人、葛藤していた。私は結局このイベントで地蔵をした。
私にしては本当に珍しい現象だった。大学の卒論発表の時は興味がある事は院生や教授でもないのに学部生1人手を上げて質問をする輩(とは言っても友達の発表に対してちょっとした悪戯心が働く程度)だったのに。この手の自分に非常に関連のあるイベントでは大抵積極的になる筈なのに。こういう時は大抵ハイになっていて目先の事に非常によく食いつき、異常なまでの関心を示す状態だ。こういう時、自分は会話をしているのに自分がそこにはいない様な感覚に陥る。…よくよく考えてみれば、ストリートで営業をしている時もこれと全く同じハイな状態の自分になっていたのかも、と今更ながらふと思ったのだった。
だが、そんなハイな自分とは全く別の人格がいる。地蔵をする人格だ。なんとか言われたらどうしようとか、怖いなと思ったりだとか。内向的になりがちな自分だ。この時私は先とは逆に、自分しか見れていない。自分が、湧き出る感情が、ロウな感情な私はありもしない相手の感情が怖いなと思い体が硬直する。たくさん同業者がいるんだから誰か私の代わりに言ってくれ〜!とも思った。人に声をかけるエキスパートがこの中には沢山いる筈である。が、みんな地蔵していた。
ストリートで声かけノックをした時の事を思い出した。あの時自分は地蔵の自分を殺していた。自分を押し殺すというよりかは声をかける事による羞恥を用いて地蔵してしまう自分を嬲り殺す。画期的なアイディアだと当時は思っていた。
この本を読んで、また今日の話を聞いて新たな悩みを持ってくれたらそれは成功だ。
と高石氏は言っていた。トーク中、私はそれでは困る、いけないと思っていた。
質問できず、地蔵してしまい、ハイな状態の自分はショックだった。
だが今ブログを書きながら思う。やはり質問をしなくて正解だったということを。
それに気がついた時にはもう、あの時聞きたかった質問の答えは出てしまっていた。自分で解ける問題だった。自分で解ける問題は是非自分で解くべきだ。その解くべき過程にこそ価値がある、という事を私はあのトークライブにて知る事ができたのだった。
あの時質問していたらどうなっていたのだろう。また、答えが知りたいと思い早速カウンセリングを受けると氏にメールを送ってしまっていたらどうなっていたのだろう。きっと私は依存してしまっていたに違いない。依存とは緩やかな自殺である。答えを自分以外の誰からか教えてもらうというのは自分の体の中から自分をなくすということと同義だ。そしてその人なしには生きていけなくなる。何故なら、自分の体の中身に入っているのは自分自身ではないのだから。
悩みとは自分形成そのものである。私はあのトークライブにて、いや、トークライブを通じてこの記事を書き始めてから初めて学び知り得ることができた。
また新たな一歩を踏み出せそうな気がした。
トークライブがすべて終わった時だった。
それはこの本は結構売れているのにメディアで全然取り上げられない!と江坂氏が嘆いていた時の事だった。高石氏は
「読んだらぜひ感想かなにか書いてくれると嬉しいです」
無理じゃないかなと私は思った。
確かにこの会の感想はツイッターのタイムラインにて見る事ができるだろう。だがツイッターは140字までしか書けない。140字で語れる事なんてたかが知れている。一言二言だ。良いライブトークだった。こんな感じだろう。良いわけあるか!というか、良いとか悪いで片付けられねぇよこのトークは…!ブログなりFacebookかなにかで感想文みたく、ライターの如く、書き起こすしか術はない。Facebookも文字制限があるし、SNSで長文晒す奴なんてなんの金を貰わずに書く奴なんてこのご時世いない。断言する。いない。いるわけがない。そんな奴がいたらきっとバカかメンヘラにちがいない。若しくは両方だ。その両方とは私の事だった。
この記事を書いていて思ったのが、私は記事を書きながら物事を考えているのだなと知った。テーマとオチ(も用意してない事もあるが)のみを用意して記事を書いている。だから書き始める時と書き終えた後で意見が変わっていたりするのだ!更に、書き終えてからも意見が変わり書き直す事も多々ある!!
結論を出すためにもこのブログ作業は私にとって必要である。このブログはほぼ、自己内省のために書かれているところがある。考えながら書いている時はトランスに入る事ができるから疲れるけれども心地よい。また書かねばならない事が沢山増えたなと、心の嬉し悲鳴をボソボソと内省につぶやいていた。丁度その時だった。
「魔法少女まどかマギカのキャラクターのナンパ師がいるんですけど」
ん?
「その人は面白くてですね、ナンパの事を『営業』と呼んでいるんです」
(私かよッッッッツ!!!!!!)
私は二度、氏のナイフで刺された。しかも名指しである。
私の事を知っている人はいないだろう。いや、いないだろう思っていた。まさかのトークの主役が知っていたのだ。
フーンアッソな雰囲気の中、そして高石氏は何気なく私を上げたのだろうけれど、刺された私は驚きと恥ずかしさ、おい!という数ミリ程のノリツッコミと数ナノミクロンの小さな喜びで腰と口と首がひん曲がっていた。
その後、魔法少女契約(ゴムすら持たず手ぶらできていたので指までしか入らない契約)をし、色々なところがひん曲がったまま、『初めての高石氏』は幕を閉じた。
ひん曲がりたい方は是非おすすめ。そして氏のカウンセリングに行ってみては如何でしょうか。