口だけヤロー
- 2015/06/25
- 18:42
私は口だけヤローである。
大きな夢を口にする。それは本当に夢のある話だ。それが叶えばとても良い大人になるだろう。とても幸せなことが起こるだろう。だがそれを今まで一度も足りとも叶えたことはない。それは何故か。
やらないからだ。
努力を。努力を続けないからだ。
努力とは成功するまで努め続ける力のことだ。私には努め続けるだけの力がない。それは10年前からはじまって20年間そのまま続いてきたものだ。人並みに同じことをずっと続けることができない。
だから逃げ続けるというのが私の本質であるってもうずっと知っていた。自ら行動を起こし、それを成功するまで行い続けることのできない人間だということを。
私は、もう逃げたくなかった。
だから今年、3つの一流になる目標を立てたのだが。
なんだこのざまは。
結局同じではないか。
しないじゃないか、努力を。
しないじゃないか、苦痛を舐めてでも続けるということを。
しないじゃないか、口にしたことに責任を持つということを。
口だけヤローではないか。
根性なしじゃないか。
ゴミクズじゃないか。
何が一流になるだ。
私は一流になんかなれない。
永遠の五流だ。
だらけている時に私はいう。
「逃げてるじゃないか」
「行動しろよ」
「努力しろよ」
と
その自己鼓舞は本来軽蔑されるべく、冷たい悲しい言葉なのだが、実際は緩く緩く生ぬるく私の中に流れ込んできて、
「ああ、またそれね、はいはい、やりますやりますやればいいんでしょ」
と
思春期の親への態度のように、聞き飽きたよそれと言わんばかりに、右から左へと流していく。20年だ。親のいない時にも聞いている声だ。それは流石に飽きても来るのだろう。
そうやって流されるたびに自己嫌悪に陥る。
自分で嫌悪すると誰かのせいにしたくなる。
でもそれは自分のせいだ。
涙オカズにオナニーしているのと同じだ。
自分に甘えているのだろうか。
現場に甘えているんだろうか。
今から頑張ろう。
今から行動しよう。
それもまた何度も口にした言葉だ。確かに今からするだろう。けれど、今しかやらない。明日やらない、その次の日にはないだらけ始めて言葉を右から左に流している。挙句、今からしようと言っても、今からすらしなくなる。
自立した人間になりたい。
私は今依存をしている。
現場に、自分に依存をしている。
夢はロマンだ、と今読んでいる本にある。
ロマンは生きる活力だ。人は夢なしには生きて行けない。
発見もないし、進化もない、成長は止まる。
が、同時に行き過ぎたロマンもまた生きて行くことができない。
現実を直視することができていないからだ。
肉体は痩せ細り、人からは見放され、非現実世界に逃げ込む。
わたしは今、どちらだろう。
過度な夢を持ちすぎて非現実世界に逃げ込んでしまうのを抑制するために逃避しているのではないか?
そうすれば葛藤が起こる。
自己嫌悪で葛藤をすればわたしは辛うじて現実世界にとどまることが出来るからだ。
逃避する自分もまた、生きて行くために必要なことだったのだ。私は非現実的な夢を持ちすぎてしまう。持ちすぎると私の存在感そのものが現実世界からいなくなってしまう。それはいけないから夢から逃避していたのかもしれない。
だが、私はもう、他人に口にしてしまった非現実がある。
一流の営業男優東大生になるということを。
生きるためにこれらを見捨てるのも良いだろう。
きっと気が楽になってこのまま生きることができるだろう。人からは、やっぱ口だけヤローだったかと言われるかもしれないがそれはほんの一瞬の羞恥だけだ。注射針で刺す時のように、一瞬だけ自分が傷つくだけのこと。すぐにそれは癒える。
だが、面白くはない。その人生はきっとつまらないものになるだろう。発見もない、刺激もない、成長もない。そんなつまらない人生を送るために私は生きているのか。
人間は必ず中間を保とうとする。
非現実と現実を保ちながら日々生きている。
どちらかに傾けば必ず釣り合いを取ろうと元に戻る。
だが余りにも偏り過ぎれば、中間の定義が更新される。
努力を楽しめる人間。今の私にとっての非現実が現実の日常、つまり中間点として組み込まれた人間。それになれるか否か。
そういえば私は完全には努力ができない人間ではなかった。
私の知る限り夢を口にして、今まできちんと努力したのは人生で二度だけだ。
1度目は高校の入部。強くなるという夢を掲げ、地区大会1回戦落ちの私が全国大会出場レベルの高校に入部。万年補欠の補欠であったが、間違いなく強くなった。
2度目は大学の卒論。会場を沸かせる発表をするという夢を掲げ、完成間近に論文データが全てなくなるというアクシデントはあったものの、拝聴者には高い評価を得た。(教授には個別で叱られたが)
ロマンは決して実現しないことはない。私にできないことを出来る人がこの世にいるのは私にも同じ人間として出来るということの証明でもあるからだ。夢というのは現実に存在する人に憧れて生まれるものなのだから。
よくわからないがむしゃくしゃして書いた。
自己嫌悪になったら読み直す用として記事にした。
1年後、これがくだらねーものだと思える、笑えるものになっているか楽しみだ。
大きな夢を口にする。それは本当に夢のある話だ。それが叶えばとても良い大人になるだろう。とても幸せなことが起こるだろう。だがそれを今まで一度も足りとも叶えたことはない。それは何故か。
やらないからだ。
努力を。努力を続けないからだ。
努力とは成功するまで努め続ける力のことだ。私には努め続けるだけの力がない。それは10年前からはじまって20年間そのまま続いてきたものだ。人並みに同じことをずっと続けることができない。
だから逃げ続けるというのが私の本質であるってもうずっと知っていた。自ら行動を起こし、それを成功するまで行い続けることのできない人間だということを。
私は、もう逃げたくなかった。
だから今年、3つの一流になる目標を立てたのだが。
なんだこのざまは。
結局同じではないか。
しないじゃないか、努力を。
しないじゃないか、苦痛を舐めてでも続けるということを。
しないじゃないか、口にしたことに責任を持つということを。
口だけヤローではないか。
根性なしじゃないか。
ゴミクズじゃないか。
何が一流になるだ。
私は一流になんかなれない。
永遠の五流だ。
だらけている時に私はいう。
「逃げてるじゃないか」
「行動しろよ」
「努力しろよ」
と
その自己鼓舞は本来軽蔑されるべく、冷たい悲しい言葉なのだが、実際は緩く緩く生ぬるく私の中に流れ込んできて、
「ああ、またそれね、はいはい、やりますやりますやればいいんでしょ」
と
思春期の親への態度のように、聞き飽きたよそれと言わんばかりに、右から左へと流していく。20年だ。親のいない時にも聞いている声だ。それは流石に飽きても来るのだろう。
そうやって流されるたびに自己嫌悪に陥る。
自分で嫌悪すると誰かのせいにしたくなる。
でもそれは自分のせいだ。
涙オカズにオナニーしているのと同じだ。
自分に甘えているのだろうか。
現場に甘えているんだろうか。
今から頑張ろう。
今から行動しよう。
それもまた何度も口にした言葉だ。確かに今からするだろう。けれど、今しかやらない。明日やらない、その次の日にはないだらけ始めて言葉を右から左に流している。挙句、今からしようと言っても、今からすらしなくなる。
自立した人間になりたい。
私は今依存をしている。
現場に、自分に依存をしている。
夢はロマンだ、と今読んでいる本にある。
ロマンは生きる活力だ。人は夢なしには生きて行けない。
発見もないし、進化もない、成長は止まる。
が、同時に行き過ぎたロマンもまた生きて行くことができない。
現実を直視することができていないからだ。
肉体は痩せ細り、人からは見放され、非現実世界に逃げ込む。
わたしは今、どちらだろう。
過度な夢を持ちすぎて非現実世界に逃げ込んでしまうのを抑制するために逃避しているのではないか?
そうすれば葛藤が起こる。
自己嫌悪で葛藤をすればわたしは辛うじて現実世界にとどまることが出来るからだ。
逃避する自分もまた、生きて行くために必要なことだったのだ。私は非現実的な夢を持ちすぎてしまう。持ちすぎると私の存在感そのものが現実世界からいなくなってしまう。それはいけないから夢から逃避していたのかもしれない。
だが、私はもう、他人に口にしてしまった非現実がある。
一流の営業男優東大生になるということを。
生きるためにこれらを見捨てるのも良いだろう。
きっと気が楽になってこのまま生きることができるだろう。人からは、やっぱ口だけヤローだったかと言われるかもしれないがそれはほんの一瞬の羞恥だけだ。注射針で刺す時のように、一瞬だけ自分が傷つくだけのこと。すぐにそれは癒える。
だが、面白くはない。その人生はきっとつまらないものになるだろう。発見もない、刺激もない、成長もない。そんなつまらない人生を送るために私は生きているのか。
人間は必ず中間を保とうとする。
非現実と現実を保ちながら日々生きている。
どちらかに傾けば必ず釣り合いを取ろうと元に戻る。
だが余りにも偏り過ぎれば、中間の定義が更新される。
努力を楽しめる人間。今の私にとっての非現実が現実の日常、つまり中間点として組み込まれた人間。それになれるか否か。
そういえば私は完全には努力ができない人間ではなかった。
私の知る限り夢を口にして、今まできちんと努力したのは人生で二度だけだ。
1度目は高校の入部。強くなるという夢を掲げ、地区大会1回戦落ちの私が全国大会出場レベルの高校に入部。万年補欠の補欠であったが、間違いなく強くなった。
2度目は大学の卒論。会場を沸かせる発表をするという夢を掲げ、完成間近に論文データが全てなくなるというアクシデントはあったものの、拝聴者には高い評価を得た。(教授には個別で叱られたが)
ロマンは決して実現しないことはない。私にできないことを出来る人がこの世にいるのは私にも同じ人間として出来るということの証明でもあるからだ。夢というのは現実に存在する人に憧れて生まれるものなのだから。
よくわからないがむしゃくしゃして書いた。
自己嫌悪になったら読み直す用として記事にした。
1年後、これがくだらねーものだと思える、笑えるものになっているか楽しみだ。