人を変える
- 2015/09/04
- 02:00
それが私の目指す人の形だ。
私の働きかけによって人の中身を変えるということ、それが私の行動原則になっている。
何故人を変えることが私の目標なのだろうか。それはある意味での私なりの生殖行動の一貫であると考えている。契約をして、DNAを相手の体内に残す事が動物の生殖方法だが、私は別の生殖方法を考え、欲した。それは契約行為のみならず、あらゆるコミュニケーション、人との会話からブログを書いていくことなど人と関わること全てにおいて人々の頭の中に私という存在の情報を残す。残すだけなら誰でもできる。頭の中に残された私という情報がその人にとって、とりあえずいい影響を与えるような、そんなとりあえずいい影響を与え残していく事ができるような、生命体になりたい。
そう、言葉に言い表すのでさえも訳の分からなくなってしまうことを本気で思っている。
目標を掲げるのはいい。それをなし得るなし得ないは別として。
私が考えうるだけで問題が二つある。
一つはどのような形に人を変えるのか。二つはいい影響とはどんな影響か。
実はどちらも抽象的なものであり、変えるべく人によって変わってくる。この人にとっては良い変化でも、あの人にとっては悪い変化で悪影響であるということは十人十色のこの世界では当たり前のことである。
だから私のこの目標は相手に委ねられる。そして、この目標が完全にクリアしたかどうかを私が知ることはない。私というニンゲンはその変化が起きたニンゲンではないから。結果的に良い影響だったのか、悪い影響だったのかわからない。
それでいいと思った。
変化を感じさせるまでの道のりにこそ意味があり私の命の全リソースを割く価値があるはずである。
久しぶりに昔の女友達とラインでやり取りをした。3、4年ぶりだろうか。彼女には現在彼氏がいるらしい。
彼女はいう。
「彼、全然会ってくれないの」
「既読してくれない、私、捨てられちゃったのかな…」
心底落ち込んでいるようであった。状況がわからないので話を引き出していく。
どうやら彼女は不倫相手になっていたのだそうだ。社内の上司だそうだ。結婚している男と体の関係を結び、こうなっているのだそうだ。
私は絶望した。
この子はまた同じことを繰り返していた。以前やり取りしていた時、彼女はヤリモクの浮気男を好いていた。そしてその時にも浮気男のことを彼と呼んでいたのだった。何故セフレなのに、彼と呼ぶのかもその時は理解できずわからず、気持ち悪くなり会話のやり取りを中断したのだった。
彼女はなにも変わっていなかった。3、4年たっても彼女の中身は変わってはいなかった。
ふと不安が過る。
変われないニンゲンはいない。何故ならば人類のDNAは皆ほぼ同じで、今変われていないニンゲンも、今変わっているニンゲンと同じDNAを持っているはずだからだ。だから何かしらの外的要因によって人間はいくらでも変化することが出来る…とそう信じていたのだが。
『人は、もしかしたら変わることができないんじゃないのか?』
『変われない運命を担った人は、一生変われないんじゃないか?』
そう不安になった。
今までに、営業以外でも人が変われるように行動をしてきた。変わってくれ、そう願っていた。形として変わったニンゲンはいた、しかし同時に私の元を去っていったニンゲンもいた。
去っていったニンゲンたちは今どうしているのだろう。思考を巡らせてみる。
色々なありえそうな結果が頭の中を反芻する。しかしそれはどれも意味のないものだった。ただの妄想でしかなかった。
いくら思考を巡らせたところで去っていったニンゲンのことの現在なんぞ、知ることはできない。
私が行ってきたこと、またこれからも行い続けていこうと思っているもの。これは間違いなのだろうか?それすらもわからない。
何故人を変えたいのか。
もう一度問う。
人を変えたいという欲は私自身も含まれていた。私を含むすべての人間が変わればいい。
生殖行動の一貫であると「考えられる」というのは、本当のところ自分でも何故人を変えたいのかはわかっていないからだ。「とりあえず」いい影響を与えたいというのも、いってしまえば悪い影響を与えたいとは、一応社会の中の人間として口にするのが難しいからだ。人を変え、何かしらの影響を与える為に生きている。それ以上でもそれ以下でもない。善となり悪ともなりうる。それこそがこの私の人を変えたいという欲であった。この理由も出ない抽象的な欲が核となり、今の営業師である私を形取っている。
行動原則の核が抽象的であるということは私の行動全ては曖昧で目的意識のない流動的なものとなってしまう。ただ相手に流れていくように進む。進むにつれ自分も変わっていく。ある時私は唐突にその流れを堰きとめる。理由はわからない。その時になってみないとわからない。そして流れが変わる。その流れは良いのか悪いのか、正しいのか正しくないのか、私には分からぬまま。
意味はない。恐らく間違いないと思う。生涯続けていたら、一生意味のない人生となるだろう。だが、それは意味がないからこそ意味があるのだと思う。意味を見出すのは私ではなく、その流れを堰きとめられてしまった相手なのだから。
そしてこれだけははっきりと分かっている。人が変わるというのは、とても楽しく、面白いことだということだ。