怠惰すること
- 2015/09/13
- 23:31
今日ペットが死んだ。QBに似た白い体の私のペットだ。溺愛していたあのペットが死んでしまった。一年で死んでしまった。
死を目にした時、私はまず初めに私を責めた。私は怠惰をしていた。溺愛していたのに怠惰とはおかしな話だ。が、その溺愛は初めだけだった。その後は気が向いた時だけとなった。世話する事をサボり始めた。だから私は私を責めたのだ。私の中の怠惰があいつの死を招いたのだと。
いちいち目を向けないといけない、エサ、飼育環境、色々なところに常に目を配っていてはならない。買いたての頃は不安でしょうがなかった。些細な事でもすぐに頭を悩ませていた。
時間が経過する事で飼育の要領を得て、心配する事がなくなる。心配がなくなると、いつか怠惰がはじまる。怠惰の開始はほんの些細な出来事による。エサを1日だけサボっただとか、臭気がちょっと気になるがほっとけば治っただとか、いつもと動きが違うなと思ったがまたいつもの動きに戻ったとか、もしかしたらペットとは関係のないところから怠惰が始まる事もあるだろう。
怠惰の始まりとはとても些細で目に見えにくいものだ。だから怠惰が始まった事に気がつく事はなかなか難しい。どうやら怠惰とは、「いつの間にかしていた」ということに気がつくもののようである。初めは短いスパンで気がつく事ができる。だが、その怠惰を繰り返していく事で、怠惰に気がつく期間はどんどん伸びていく。誰が見ても大きな過ちなのに己は今、怠惰をしている事に気がつく事が出来ない程まで怠惰してしまう。
そして気がつく。取り返しのつかない結果を持って。
そして無意味に責め立てる。取り返しのつかない事実に対して、己の過ちをこれでもかと責め立てる。死の結果は変わらない。
私はあいつの死の匂い、死の色に気がつかなかった。 もしかしたら気がついていたのに、見て見ぬ振りをしていただけかもしれない。だとしたらなぜ見て見ぬふりをした?それが怠惰だ。サボる事が死の可能性を私の中で何故か上回っていた事によって起きたのが怠惰であり、その延長上にある死という結果だ。
死の匂いが鼻腔を離れない。
死の色が網膜にへばり付いて取れない。
怠惰は死を呼び込む。そして死は死を呼び込む。
私が怠惰して、あいつが死に、私の感情が死んだ。悲しみだけを残して。
私は私を責めたのち、次の事を思い浮かんだ。
物事、生き物には必ず終わりがある。永遠はない。その終わりに悲しみを抱き、もう悲しむ事をしたくないのならば、何もしなければいい。何もせず、動かず永遠にじっとしていれば悲しむ事、傷付くこともない。
動かないということは怠惰の極地、怠惰が迎えることの結果だ。そしてその様はなにやら死体に似ている。似ているというよりはもう死んでいると思われる。怠惰することは死ぬ事と同じ事だ。