病院に行く必要のないコミュ障、いじられキャラ
- 2016/01/17
- 02:19
私はコミュニュケーションに患いがあったらしい。それは去年の営業活動にて何遍も繰り返し飽くまで確認した事実であった。会話相手への唐突な興味関心の消失、相手目線を無視した発言、抱く感情と発する言葉の乖離とそれによって生じる嫌悪感。挙げたらきりのない現段階におけるコミュニュケーション障害の原因は、私自身が両親から受け継いだ遺伝的情報によるものというよりは、私が今まで生きてきた過去の積み重ねによって形成されているものだということは、今更ながらあえて確認するまでもないことであった。だが、私は今まで何を見てきて、何を考えてきたからこのようになってしまったのか。それは、高石さんのカウンセリングを終えてからというもの、度々思い返されることでもあった。
私は鬱人間である。病んでいる人間である。これは間違いない。出来れば外に出たくなく、1人で引きこもってゲームしていたい人間である。そんな人間が社会に生きようと、充実した華やかな生活を送ろうとしたからなのだろうか、主に恋愛事情で文字どおり頭を抱える日々を過ごすことになってしまっていた。抜け出すためにはどうすればいいか、常日頃悩んでいた。そんな時に出会ったのが「ナンパブログ」だったのだ。
「ナンパブログ」にはいろいろな人がいた。引きこもりでパニック障害だった人。己の限界と狂気に気がつかず五感がおかしくなった人。リストカットをしていて自殺願望のあった人。もともとモテていたのにも関わらず営業を始めて、機械的なルーティンワークをこなし、日々悩み、しかし喜びを露わにせずに上を見続ける人。馬鹿そうなことを書く人。アフィリエイトを書く人。アフィリエイトでないのに非モテたちへの説得を書き綴る人。いろいろいた。その中でも惹かれたのはやはり鬱感情を持ち合わせながらも営業を何故かやり続けるという人たちの書くブログであった。
何故根暗人格の人間が営業なんでするのだろう。頭がおかしいんじゃないか?アホなんじゃないか?本当に意味がわからなかった。その意味のわからなさに私は惹かれた。それは私が鬱傾向のある人間であり、病んでいて、引きこもりで、コミュ障のような振る舞い言動を実際に行っていたこともあり、共感か?同一化か?実際に彼らの生きる「ナンパ」界に入り込み、ツイッターやブログで思いを長々と書き綴る事に通じた。
だが、私の見てきた過去をよくよく思い起こしてみれば、私は別に、鬱で病院に行ったことがあるわけでもなく、病みすぎていてリストカットしてしまうということでもなく、学校がいやで不登校していたわけでもなかった。だからつまり、私は別に、彼らと境遇が一緒だから感激してそこに引き寄せられたというわけではなかったのだ。私はただ彼らの書く文の物語に感激をした読者にしか過ぎなかった。読者なだけで、私自身はこの物語の人物ではなかった。むしろ全く異なる存在であった。去年初頭の私はそれを少々勘違いをしており、こんな私みたいな人間がやっている営業とはさぞ奥が深いものなのだろうと、のめり込んでいったのだ。
確かに奥の深い営業界。そして続けていくうちに私はコミュニュケーションの障害があるのだと知る。はじめは知れて嬉しかったのだらう。彼ら「鬱人間ナンパ師」と似たような境遇な訳だから、今度は私自信が物語を作っていくことができる。そう思ったのだらう。実際は違った。過去を振り返り明らかになってしまった。確かに、営業を行うたびに自身のコミュニュケーションの障害があることが明白になっていくのだが、それはネットで見てきた彼らとは全く異なる、別次元のコミュニケーション障害を私は抱えているようなのであった。20年近く繰り返し繰り返し積み上げてきた自身の拗らせのベール、剥ぎ取り中身を見る事を無意識にか拒んでいたようだが、今回ちゃんと向き合う為にもしっかりと眺める事にしよう。
学生時代のことだ。私は毎日学校へ行っていた。インフルエンザで出席停止になったことがあっただけで、一度も足りとも遅刻欠席をしたことがなかった。別に学校に行きたくないとは思わなかった。家に引き篭ろうとも思わなかった。人が怖いとも思ったことはなかった。何故ならば、それらを生み出すであろう、明確な理由、出来事、状況が私にはなかったからである。
そんな行かない理由がなかった私であったが、学校が楽しかった訳でも充実していた訳でもなかった。嫌なことがあったのだ。それは、学校内の所属するコミュニティで、私はいじられキャラとして存在していたことである。
あれは小学校だったか、中学校だったか、当初私はいじられるのがとても嫌だった。嫌で嫌でしょうがなかった。だが学校にはいった。そのいじられは、私にとっては不登校になるほどのものではない、そう思っていたので毎日行ってた。もしかしたら、いじりに屈するのがいやで負けん気を奮い立たせていたから、かもしれない。
いじられることはとても腹立たしかった。だから私はいじられる度に怒っていた。やめろよ!といった。だが怒った私にコミュニティは更にいじりを被せてくる。数の暴力だ。私は諦める。諦めると更に上乗せをしてくる。何もしない。時間が過ぎるのを待つ、すると、ゆっくりだがそのいじりの波は徐々に引いていく。いじりがなくなり、静かになる。私はいじりの波が落ち着いた空白の時間をすごす。しかしそれのいじりの波は決してゼロになることはない。しばらく時が経つと、またいじられていた。
いじられ続けていくことによって、収まりきれない怒りが湧くこともしばしあった。そんな時私の震える感情は涙として流したり、担任の先生にちくったりという形をとっていた。そうするとやはりコミュニティのいじりはすっと引いていく。だが、やはりそのいじりは消えることなく、時間差で大きな波となってやってくることになった。
ある日の昼休み。私が例の如く感情の火蓋を切り、先生に言うぞと怒鳴り散らしていたときだ。コミュニティの中心核の人物は言った。
「俺らはお前のことが嫌いでこういうことやっているわけじゃないんだよ。むしろ好きだからこういうことをやっているんだ」
「ぶっちゃけ、いじられるって美味しいことだと思うよ?あいつみたいな不登校になるのに比べたら全然いいと思わない?」
それを聞いた当時の私は、ああ、悪いことじゃなかったんだ。と、素直にそう思ったのだった。彼らは悪意を持っているわけじゃないんだ。ならいいや。考えてみればたしかに私は不登校ではない。そんなに悲惨な状況ではない。ちゃんと居場所がある。居場所のない彼らなんかと比べたら全然いい。むしろ上の存在だ。下には下がいる。そう思えたらなんだか笑顔になってきていた。なんで笑顔になっていたのかはその時はよくわからなかったが、それはきっとコミュニティにおいて自分の存在を認められた事による承認欲求が満たされたからなのだと今となっては容易に想像できる。ただその時はよくわからなかったから、ただただ笑う事にしていた。笑いながら震える感情に蓋をした。
それ以降、段々と私はコミュニティからいじられることを受け入れていくようになっていった。悪いことじゃない。いいことなんだ。そう思っていたからだろう。私のコミュニケーションの仕方は劇的な変化を遂げた。いじられることに対して怒ることはしなくなった。あえて自らバカや下品をやって女子にキャーと言われ、男子たちにバカ笑いされるようなことをやるようになっていた。低い奇声と大きな嘲笑を受けるたび、私はえへへと笑っていた。常に、いじられキャラとしてコミュニティに存在しようとし続けた。
本当は怒りが湧いて漏れ出そうでしょうがなかった。だが、えへへという笑い声で常々そんな湧き出る震えた感情を押し殺していた。そんなことを10年程続けた結果、私のコミュニケーションは完成していた。いじられキャラは楽だ。いじられキャラとしてコミュニティに属していれば、自分は何もしなくてもいいからだ。ちょっと何かを言うだけで周りは爆笑するし、時たまやりたくない嫌なことをコミュニティに強要されるけれど、それをこなすことができればまたみんな笑ってくれる。「お前キモいなーw」とか「マジウケルw」だとか言われながら、このコミュニティ存在し続けることができたから安心できた。このコミュニティに存在する価値があるんだって認識することができた。
「いじられることは美味しい」
これは世間でも大変よく聞く言葉である。芸能界、会社、サークル、部活動、様々なコミュニティに必ずと言っていいほど存在するいじられキャラ。この言葉は彼らの存在を社会的に肯定する言葉である。この言葉は甘美だ。このいじられキャラとは社会に属することができる、そして人々に存在を認めてもらう承認を受けることができる。この承認こそがこの言葉の旨味成分なのだ。天使の言葉である。これを受け入れることで、人はいじられキャラとなる。いじられキャラになれば、人は安易にコミュニティに入ることができるのだ。人々からいじられることこそが、彼らの存在意義なのだから。
いじられキャラとしてノコノコと生きてきて、最近ようやっと気がついたことがある。いじられキャラの人間は非生産的な人間であるということを。コミュニティに属していなければ、1人では何もできないゴミカスのような悲しい存在でしかないということを。所属したコミュニティに絞るだけ絞られ消費されるだけ消費されて飽きられたらポイとそこから排除される、しかし自分自身では何も生み出すことはできないし、ただただ人の目を引くことができるだけで人を惹きつけることのできない哀れな存在だから、また別の自分をいじってくれるコミュニティに属するため闇中を模索する、見るに堪えない存在だということを。
あの言葉の苦味成分、いや、毒素、デメリット、そんなようなものに気がついた。いや、気がついたのではない。思い出しただけだ。
いじられキャラのその人は、社会というコミュニティの枠組みに確かに存在しているから生きることができている。しかもコミュニティに属している故、人とコミュニケーションは一応は取ることができている。はたから見れば、なんの変哲もないごく普通の一般的な健常者だ。だがなにかそこには、彼の中には、苦しく、腹立たしく、そして悲しく哀れで嘆かわしい感情が、胸の奥につまりにつまっている。だが孤独という寂しさを味わいたくはないからか、そのつまりにつまった汚物を見て見ぬ振りをして、承認欲求を満たしたいがために、コミュニティ内で道化に転ずる。
社会の、コミュニティの、人々の、誰1人として彼にこうは言わぬだろう。「彼にはコミュニケーションの障害がある」とは。そうして本人は違和感を日々胸に留めながら、理由の分からぬ自己嫌悪に苦しみ続けながらもこう思うだろう、「病院に行くほどではないのだ、だから自分は大丈夫」なのだと。
天使の声というこの言葉の意味を裏を返すのならば、この「いじられることは美味しい」とは、非生産的コミュニティから発せられる誘いの声、堕天への道標であると言える。
「いじってくれることは美味しい。」このことを言ってくる人、そしてこの言葉を間に受けてしまう人は、きっと寂しい人なんだなと思う。1人になるのが怖い、社会に属さねば怖い、コミュニティに入って無ければ怖い、そんな人なんだろうと思う。弱さが人の弱さを引き付ける。そして人の弱さに彼らは貪り尽くされる。
いじられキャラとしてコミュニティに属している人は、何かしらの精神病を患っている可能性はある。例えばADHDとか。仮に本当にそうで、コミュニティに属さねば生きていけない、いじられることは美味しいことだと思うのであれば現状を保ち生きていくことはなんの悪いことではない。本当に生産性がなく、自覚していて尚且つそれに甘んじる人も同様に、その立場を維持すれば良いと思う。
だが少しでも、湧き出る震える感情があり、自ら蓋をしていて、しかし自分の中で、これは違うなと思うものがあるのならば、それはきっと「病院に行くことのできなかったコミュニケーション障害」であると思われる。不登校生でもリストカッターでもないコミュニュケーションの障害者なのだ。
あくまでもがいて生きていこうと思う。