両視点、ナンパ師と教師
- 2016/02/22
- 15:54
私は家庭教師をしている。基本的に全教科。下は小学生上は高校生まで。この仕事での悩ましい事といえばやはり教え子の実力の伸び悩みである。
つい一昨日の事だ。
教え子の読解力が乏しすぎて私はその場でキレる事もできず新たな指導法を見出す事もできず、教え子を前にして頭を抱えてしまった。匙を投げるという事は教える身としてはあってはならん事である。教え子を不安にさせてはいけない。頭を抱えながら私はふと、北海道ツアーでの出来事を思い出していた。
あのツアーで私に営業を教えていた公家シンジさん。ツアー終盤、私に対して怒りを露わにしていた。チームの輪を無意識に乱し、一即もできないくせに出来ているような振りをしている、更にはそれらを反省しているようにはまるで感じられない。そのような私に対して、シンジさんは私以外のツアー参加者が集まっている場所で皆に吐き棄てるかのように語っていた。一言一言に心底腹立たしい感情が含まれているのだろうという事を私は感じていた。
教え子を前にして私はふと、あの時のシンジさんはもしかしたら今の私のような心境だったのかもしれないと感じたのだった。
不出来な教え子QBをどうしたら良いのか、教師公家はあの北海道でもしかしたら、頭を抱えるどころか頭がハゲ散らかしそうになるくらいむしゃくしゃとしたストレスを抱えていたのかもしれない。ツアーという形で迷える人間を預かっている、金を出してきている(金が足りない私は後日払い)以上、参加者には何かしらの結果を残させねばならない。しかし皆が皆、上手くいくはずはない。こいつには出来てあいつには出来ないというものがあるのは私も指導する身だ。知っている事実である。そんな私が思った以上のポンコツであり、教師公家は手を焼いていた。そういった状況だったのかもしれない。
こう、生徒の結果が思ったより出ず、焦ってしまっている状況で教師が取るべき行動は二つあると思う。ショック療法か、見守り放置だ。
シンジさんは私に対して、ショック療法を試みたのだろう。図星や理屈や理不尽や怒鳴りを用いて相手に向けて凹まし、その時に生じる反発力を用いる方法。私も使うときは使う。このショック療法は効果のある人には絶大なスパルタ教育方法だが、相手を凹ました際、その相手が違う方向へ反発してしまう場合があるというデメリットがある。
それに対しての見守り放置とは、相手の成果が出るまで信じて待つという事である。カウンセラーである高石さんが迷える人間たちに使っている、ような気がする。種を撒くだけ撒いて、それを相手が認知し成果を出すまで待つ、という事。撒いた種に相手が気がつかずに終わってしまう事があるが、そんな時はすかさず、言葉を投げナイフのように投げとばして内省をさせようとしてくる。内省させ、自発的に撒いた種に気がつかせる事で成果をより強いものさせる、のかもしれない。勿論時間がかかるため一番必要とするものは忍耐力である。
この日はなんとか授業を終える事ができたが、家に帰り私はネットで読解力を身につけさせる術を漁りまくった。当たり前だが、読解力とは1日で身につくものではなく、日々の積み重ねによって身につくものだ。知っていた事とはいえ、落胆した。
私は教え子に、国語を教えていた。内容を要約するという問題だ。だが教え子はいくら言っても要約する事ができずわかんない、わかんないと連呼する。
(目の前の文に答え書いてあるのに、それをそのまま書き写すだけでいいのに、何でわかんねーんだよ…!何でそれを冷静にまとめらんねーんだよこの子は…!)
そんなような事を思いながら、私は情けない事に腹が立っていて、わかんないわかんないと涙をこぼすほど焦る教え子と共に、私自身もどうしたら良いのかわからなくなってしまっていた。あの光景、自分で起こした事とはいえトラウマになってしまいそうだ。
そういえばシンジさんに、女の子に丁寧な声かけをするようにと言われたとき、いまいちピンと来ず、戸惑っていた事を思い出した。何度もなんども丁寧に丁寧にと言われるが、やはりわからない。やはり今の私の状況と似ているなと思った。ぶっちゃけ、生徒にいくら丁寧な声かけをしろといってもその「丁寧な声かけがわからないから」丁寧になるものもならないと思う。
教え子がわからないと言っている時は、教え身は教え子がわからないという事実をしかと焦らず受け止めてやる必要があると感じられた。わからないから教わりに来ている。なら教えてる方も一緒に慌ててはいけない。現状の教え方ではわからないから、わからないと言っている。だから互いに慌ててたら、わかるものもわからなくなってくる。
こっちもわからないをわかるに変えさせる方法がわからないのならば一緒に模索の道を進めるべきだ。時間はかかるかもしれないが、時間をかけるのを怠りなにもわからない状態であるのは何の意味もない、ただの時間浪費となってしまう。
わかっている振りをしている子もよく現れる。それをなくすためにもこまめに質問や問題をする事だ。わかっていなければまた戻ってやり直すことだろう。
教える身として3年生きているが、まだまだ未熟ペーペーな私である。場数はまだ足りず、同じ子を長期間指導していても未だにこのように慌ててしまう場面が多々ある。
「教師とは虚勢とハッタリである」
前にそんなようなことを30年先輩の教員に言われた事があった。バカジャネーノクタバッチマエと教育に熱を滾らせていた新人の私は思ったが、指導を重ねるうちまぁ確かにそうかもなと思うことが増えてきた。やはり自信を持って指導をしないと生徒になめられるし、ついていきたいとも思わないだろうし、いう事も聞かなくなるだろう。それでは教師としての職業が成り立たなくなるからという事であの言葉があるのだろう。
だが虚勢は虚勢。ハッタリはハッタリだ。いつか化けの皮が剥がされる。剥がされて良いのならいいけれど、それらを貼る人間はプライドが高い。大変危険な心持ちではなのではないかな、と今は思う。
実際虚勢とハッタリで人にものを教えている人は多い。多いというか、私を含め全ての先生と名のつく人がそうなのかもしれない。それ自体を私は否定しない。そうしなくては、人にものを教えると言う事は成り立たないのだろうから。
だが虚勢とハッタリを続けて辛いと思うのならやめたほうがいいのかもしれない。教える身の人間も昔は教えられていた人間で、同時にすべてを教わってきてわけではない。だから不安に思うところ、わからないところもあるはずである。そして直面する筈である。直面した時どうすればいいのだろう。
自分なりにそのわからないところを追求して見る事だと思う。別に助けを求めても良いと思う。他の教師だったり、自分の教え子の力を借りても良いのではと私は思う。肩を互いに取り合って共に進んでいくイメージ。目指すべく目標は教え子と教師、共に同じなのだから、お互いに意見を交換し合う事が大切なのかもしれない。シンジさんも北海道で言っていた。「寄り添う事が大切」なのだと。
『ナンパ師は教師』
なのかもしれない。