昔の上司たちと話した。
社会で育ち、社会に揉まれ、社会で自尊心を育んできた人たち。彼らは長きに渡って確固たる強い意志を作り上げた。そうそう簡単にこの意志は崩されないのだろう。そんな強い自尊心を形成した人たちから四方八方に私の生き方を批判された。まただ。もう随分慣れっこだ。慣れっこだが気持ちの良いものではない。社会的外道の批判。私の存在は彼らの口をより多く動かす。そこに影があるから光ができるように、彼らは私を使って自己存在の肯定を行う。
今日もまた随分と嫌な気持ちにさせられた。その嫌悪を感じる度、それが成長の糧になるのだと確信する。嫌悪とは自分の中にある本質に触れる部分であるから。
その私の嫌悪を、彼らの言葉が撫でていくたび、私は反論をせず頷く頷く頷く。そして同意する。
「そうですよね。でもね、皆さまの言う通り僕はこういう人間で、実際に自分は正しいことをしていると思っているんです。だけれど、今の言われた事に対して確かにそうだよねと思うところもあるし、皆様が嫌悪するであろうということも知っているし、僕の生き方は確かに意見されても仕方がないことだなとも思えるんですよ」
「その言い方、反応はお前の自己防衛に過ぎない」
そんなことは初めて言われてから、少し内省せざるをえなかった。内省した心の奥で浮かび上がったのは、
(はぁ?)
という語尾が上がった溜息だった。
先の程と同じ様に相槌を打ちながら、今度は目を見開いていく。彼らの動き、言動をそうしてそこから生まれる矛盾点を収集していき、意見の脆弱点を計算する。間も無くして材料が並ぶ。彼らを撃ち抜くためのそれが。
私はこの元上司たちを幾らでも罵ることができる。準備が整った。罵るだけの材料を今、私は持ち合わせている。
「ちょっと待ってください」
彼らの口々を一旦途切らせる。一瞬の間。彼らの目が一斉にこちらへと向く。どんな顔だ。怒りではない。悲しさでもない。喜びなんかでもない。
表情が曇っているのにこれから言われるそれを待っている様な、そんな顔に私は見えてしまっていた。なにか、違和感を感じた。その違和感が目の前にあった材料を全て吹っ飛ばして口から放たれた。
「なんだろう、今の感じすごく違和感があるんですけど」
「違和感?どこが?」
「いや、なんだかすごくおかしいと思えるんですよ、今の意見。なんだろうなぁうまく言語化出来ないなぁ。ところで…」
この曖昧な表現が彼らのトークエンジンを刺激する燃料となっていった。
反論したい、または反論すべく材料は確かに揃うのだけれども、実際の人との会話の時では文句が中々出てこない。出てこないわけじゃない。頭には浮かんでいる。それを口にできないのだ。会話が終わった後、その会話を思い返す様に振り返るときに、あぁせっかくあの時浮かんだ言葉をかたちにしなかったのかとか、こう言ってやりたかったなとか、あそこは違うんじゃないかとか。そんな想定の話を頭の中で巡らせる。そして、そんな想定を言わなかったのは私は彼らの言葉によって随分と疲弊させられてしまったからなのだということに気がつく。疲弊してなければ恐らくば反論をしていたのだろう。では彼らの何が私を疲弊させたのか。それはきっと彼らが私に対して放ち続けていた批判のせいではない。彼らが私を「批判する」ことを利用して語られる「1人語り」に、だ。
彼らは雄弁に自分の人生を語る。俺の時代はこうだった。俺はこう生きてきた。最近の若者はこうだ。僕の息子もこうだった。だいたい同じだ。一方通行。聴く側はうなづく事しか許されないように感じてしまう。
一応こちらにハテナを投げかけてくる。それらは決まって大抵、こんなものだ。
「君、夢がある?」「この先将来やりたいことは?」
それを聞かれた時点でああこの人は私という存在から、何か冷たくて暗い、不安や怒りとも違う、寂しさに同義な感情を受け取ってしまった人なんだなと悲しくなってきてしまう。悲しみながら私は怒る。なんで文句ばかり言ってくる奴に私の事を言わなきゃなんねんだよ。アホか。そう、腹の奥で嘆いている。
彼らはその答えを求めたがっている。まるで雪山に閉じ込められた子山羊の如く、顎を突き出す。埒があかないから一応答えてみる。そうすると彼らはしかめっ面をする。そうじゃない、そういうことを聞いているんじゃない。そんなものが欲しいんじゃないと。
アホか。お前の納得いく意見を発する為に私はここにいない。お前の欲しい餌をくれてやりたくはないんだ。彼らは私と会話していない。私を見ていない。私と会話をしたいんじゃなくて自分自身と会話をしたいと思っている。私を見ながら自分自身を見つめている。だけれどその自分自身は天邪鬼(私)だから、彼らの思う言葉を出してくれない。来て欲しい言葉でない言葉を言われ彼らは葛藤しているようなのだ。
彼らは私を見て馬鹿にしているのだろうか。単純に私を馬鹿にしたいからこんなに言うのだろうか。
「君は社会を舐めている」
だなんて言葉を彼らはよく口にする。だがよく考えてみればその言葉は自分の器の小ささ、価値の低さを露呈してしまう様な言葉だ。彼らは己自身の不手際によって社会に舐められてしまう。何故わざわざそんな愚かな事を言ってしまうのだろうか。彼らの言葉にうなづきながら私は疑問を抱き続ける。
彼らは私を見ることで自分自身の弱さを見つめているのかもしれない。私はまだ弱い。彼らにも弱さがある。互いにその弱さを受け入れて、新たな強さを見出すことができればいいな、そうあの酒場での会話を思い返しながら、珈琲を啜った。人を変えることは難しい。だったらまずは自分を変えていかねば。